イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月10日(水):近況

今年の冬はいつになく雪の少ない季節だった。除雪機の稼働もほんの30分ぐらいで、済んでしまった。ただ、3月は、晴天が続いた割には、気温が上がらず、わずかな軒下の雪も消えるのが遅かった。3月に入り、長年の懸案だった教会施設の拡張に始めた。と、言っても、業者を頼んで整地を行い、そこに小さな会堂を建てる予定、整地ははぼ完了しそうな状況、まぁ、秋までにかかって、完成したらよかろう。・・・・・

青森の土地が売れそうになっていたが、ここへ来て、振り出しに戻った。800万円ほど予定していたのだが、買い手方の融資が上手くいかなかったらしく、御破算になった。そのうち売れるだろう、急ぐこともない。・・・・・

土地造成の工事をしているのが、ちえ子の連れ子の祐二。昔は随分悪たれであったが、それから30年後の今、従業員30人ほどを抱える、土木会社を経営している。あの子がこんなになるとは夢にも思わなかった。教会拡張の仕事をほとんど任せている。・・・・

あ、車を手放した、マークX、マフラーに穴があいて修理不能、4年ばかり乗ってたが、廃車にした。今は、軽自動車一台切り、これで十分、おいらも歳だし、遠出もすることはないので、我慢する、何かの用事で、遠出する時は、レンタカーを利用した方が、便利で、経済的、な事間違いない。・・・・・・・・

母屋の屋根が雨漏りする、業者に頼んでいるが、いつ来て直してくれるか見当がつかない。いざとなった自分で直すしかない、面倒なことだ。・・・・・

大館の貸家の、修理もある、これは、祐二に頼んだ、自分でやれば、たいしてかからないが、もう、体力もない、多少費用が掛かっても、祐二に頼んだ方がよさそうだ。・・・

教会の礼拝が淋しくなった。しばらく前、4名の不届き者を、追い出した。不都合なことがあって、二家族4名を出入り禁止にした。それでなくとも少ない人数だったのだが、さらに、少なくなり、あぁ~、6名の礼拝になってしまった。・・・・

 

 

4月6日(土):ステパノの殉教

ステパノの長い説教が終った。このような説教のもたらす結果は明白である。ステパノの招いた死がやってきた。しかし、彼は人々の顔がはげしい怒りに歪んでいるのを見なかった。時間を超越して、神の右手に立っておられるイエスを見つめていた。そして、この事実を告げたとき、人々は、ステパノが神を汚しているとしか思わなかった。神について汚し言を言う時の罰は、石うちによる死刑だった。これは合法的な裁判ではなかった、私刑である。なぜならユダヤの最高法院である議会は、死刑を権限をもっていなかったからである。ステパノを殺したのは、盲目的で、自制心を失った、爆発的怒りであった。・・・・石うちは次のような方法で行われた。罪人は高いところに連れて行かれ、底から突き落とされた。証人たちは突き落とす仕事に手を貸さなければならなかった。そして上手く死んだかどうか確認し、死んでいない時には、大きな丸い石を死ぬまで投げ落とすのである。・・・・・・これを解く鍵は、ステパノが、自分に加えられたすべての仕打ちの彼方に、み手を広げて待っておられる主を見た事であった。ステパノは殉教者の死が、キリストのみ座に通じる門口だと思っていた。このことを解く鍵は、ステパノが、自分に加えられたすべての仕打ちの彼方に、み手を広げておられる主を見た事にあった。ステパノは殉教者の死が、キリストのみ座に通じる門口だと思っていた。・・・・・ステパノは主の模範に従った。ステパノはイエスご自身を責める者の為に赦し祈られたように祈った(ルカ:23・34)。キリストに従う人は、それが人間の側から実行するのは不可能に思われる事柄であっても、やり通していく力をいつも見いだすことを、歴史が教えてくれる。・・・・恐ろしい騒ぎも、ステパノは不思議な静けさに仕上げてしまった。眠りについたのである。ステパノには、あたかも殺されるのは当然であるかのように、正義をやり遂げた人の安らぎがあった。・・・・・・8章1節の前半は、この箇所に加えられる。(方が良い)。この場面からサウロが登場する。異邦人のための使徒とされたこの人は、ステパノの処刑に熱心に賛成した人であった。アウグスチヌスは言ったように「教会がパウロを与えられたのは、ステパノの祈りによる」。サウロはどれほど一生懸命に忘れようとしても、ステパノの死の様子を

忘れるわけにはいかなかった。このように、ごく初代において、すでに、殉教者の血は教会の基となり始めていた。

 

3月30日(土):イースター

『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられるころ、お話になったことを思い出しなさい。三日目によみがえられなければならない、と言われたでしょう』ルカ:24章。イースターおめでとうございます。皆さまの上に神のまもりがありますように。

 

3月28日(木):動物たち

ある有名なコラムニストが、毎日世相や、政治家の批評記事を書いていると、うんざりすることがあるという。悲憤慷慨し、拳を振り上げてみるものの、自身は醒めた目で見ているという。そんな時は、動物園に電話を入れるのだそうである。慣れたもので係の人も、それでは一つ動物を集めて水泳大会でもやりましょうか、と言うのだそうである。そうして、「猿があんたに泳ぎが上手かったとは知らなかった」。と妙な発見をするという。そんなことをコラムにしても、突っ込みが足りない、問題意識が低いとお叱りを受けることもなかったという。まだ、日本もいろんな意味で余裕があったのであろう。・・・・カラス、 鳥 からす。カラスが好きだという人は余りいないと思う、一見、悪魔の申し子のようでもあり、実際縁起の悪い鳥に思われているのだが、日本の童謡は、そのカラスを見事に謳いあげている。いわゆる「七つの子」と言う童謡である。「カラスの赤ちゃん、なぜ鳴くの コケコッコのおばさんの あ~かいお帽子欲しいよ、・・・・おそらくこうした日本の童謡は世界に類を見ないほど、優しさのこもった童謡であろう。・・・・・・昔、父がカラスを飼っていた。飼っていたというより、カラスが勝手に来て父が餌をやっていたのであろうと思う。ある時、何日かカラスがいなくなった。そうこうするうちに「迷子のカラス」ということで新聞に載っていたのである。そのカラス、迷子になったのはいいが、そそっかしいカラスは、父親のハゲ頭とどこぞの人の禿げ頭を見間違えて、その人の肩に降りて行ったようである、びっくりしたであろう、その人は、捕まえて、警察に届け、かくして新聞種になったという次第であった。新聞を見た父は、自転車に乗って随分離れた隣町まで、不良息子を引き取るように迎えに行った。・・・遠く、旧い昔の話である。・・・・アシジの聖フランシスコは、小鳥たちに説教した。ヨーロッパの子供たちはこの聖人が大好きで、動物とお話出来たと信じている、彼の伝記を読むと大人向けに書かれた書物の中にも、そうした逸話が大真面目で、載っている。

 

 

3月25日(月):ミラボー橋


ミラボー

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

われらの恋が流れる

わたしは思い出す

悩みのあとには楽しみが来ると

 

日も暮れよ、鐘もなれ

月日は流れ、わたしは残る

 

手をつなぎ顔と顔を向け合おう

かうしていると

二人の腕の橋の下を

疲れたまなざしの無窮の時が流れる

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

流れる水のように恋もまた死んでいく

恋もまた死んでゆく

命ばかりが長く

希望ばかり大きい

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

日が去り、月がゆき

過ぎた時も

昔の恋も 二度とはまた帰って来ない

ミラボー橋の下セーヌ河が流れる

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

アポリネールの詩:訳堀口大学。昔、どこかで覚えたミラボー橋の詩を思い出し。載せてみた。

 

3月22日(金):Taj Mahal

【インド北部のアグラにあるイスラム教の廟堂、ムルガ帝国の第15代皇帝シャー=ジャハーンが愛妃のために1632年より建立。装飾美術の粋を集めた華麗な建物として有名(広辞苑)タージマハルとは、その呼名も美しいが、惨劇があった。インドのムンバイで同じ名前の、タージ、マハルホテルが、襲われ200人近い人々が亡くなった事件があった。9:11に、アメリカの国際貿易センターが崩壊した時、あるアメリカ人が言っていた。「アメリカがこれほど憎まれていたのか」と。多くの人はアメリカ人が大好きである、しかし、少なからぬ人々がアメリカと言う国が嫌いなのである。アメリカがこの落差に気づいていたかは別にして、和解の道を選ばず、最初のボタンを掛けたがえた。それから、どれほど多くの人の血が流されたことか・・・・

タージマハル、シャハーン帝の愛したマハル姫、この薄命の妃のために帝は国の財力が尽きるほどまでにしてこの廟堂を建立したという、自分の廟堂は建立出来ず、命尽き、マハル姫の傍らに眠っているという。マハル姫はかくも美しかったのか、その傍らに眠る帝のみる夢は・・・・

3月18日(月):絶筆

『風で寝床に臥せりながら、上原和著「斑鳩(いかるが)の白い道のうえに」と言う本を読んだ。』と言う書きだしで始まる「天声人語」の文章が深代氏の絶筆となった。この本は聖徳太子の悲劇を描いた本である。その一族は皆殺しにされるという悲惨な運命をたどるが、その太子ゆかりの「法隆寺」をもう一度訪ねてみたいと、この筆者は「天声人語」を締めくくっている。風邪で臥せっていると言いながら、この人は何故か自分の病気のただならぬことを薄々気づいていたのではないかと、思わせられる。・・・・また、この人は、大佛次郎の絶筆についても、天声人語に書いている。当時朝日新聞に連載されていた天皇の世紀と言う大作、まさに、大佛次郎がライフワークとして渾身のおもいをもって書き続けていたものである。著者がどこかでインタビューを受けていた。「先生、この連載はいつまで続くんですか?」との問いに、「僕もわからないんだよ」と答えておいでだったようである。この途方もない連載が、休載になる前に書かれていた場面は、明治維新北越戦争、官軍を迎え撃つ、河合継之助の最期の場面である「火を斌(さかん)にせよ」と呟いた河井の死を締めくくったのが、司馬遼太郎であるが、大仏氏はもう少し、悠然としていた。関係者は、大仏先生が、継之助の最期を書けるのか、その前に先生の命が尽きるのか、固唾をのんで見守っていた。連載、1555回目、休載とフエルトペンで、書き記し、筆を置いた。先生はその二週間後に静かに息を引き取ったという。・・・

負け戦は初めから分かっていた、河合継之助、越後人の最期の抵抗を、サムライを描いていせた。大仏先生は、継之助同様に従容としておられたのであろう。大仏次郎(おさらぎじろう)。深代惇郎(ふかしろじゅんろう)、司馬遼太郎三者三様に私にとっては師であったように思う。・・・・

深代惇郎略歴』。昭和4年生まれ、28年三月、東大法学部卒、同年朝日新聞入社、横浜支局員、東京本社社会部員、」リンド院、ニューヨーク各特派員、東京本社社会部次長、などを経て、43年論説委員、46年ヨーロッパ支局長、48年論説委員、同年2月から50年11月1日、入院するまで「天声人語」を執筆した。50年12月17日、旧制骨髄性白血病のため死去。