イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

3月28日(木):動物たち

ある有名なコラムニストが、毎日世相や、政治家の批評記事を書いていると、うんざりすることがあるという。悲憤慷慨し、拳を振り上げてみるものの、自身は醒めた目で見ているという。そんな時は、動物園に電話を入れるのだそうである。慣れたもので係の人も、それでは一つ動物を集めて水泳大会でもやりましょうか、と言うのだそうである。そうして、「猿があんたに泳ぎが上手かったとは知らなかった」。と妙な発見をするという。そんなことをコラムにしても、突っ込みが足りない、問題意識が低いとお叱りを受けることもなかったという。まだ、日本もいろんな意味で余裕があったのであろう。・・・・カラス、 鳥 からす。カラスが好きだという人は余りいないと思う、一見、悪魔の申し子のようでもあり、実際縁起の悪い鳥に思われているのだが、日本の童謡は、そのカラスを見事に謳いあげている。いわゆる「七つの子」と言う童謡である。「カラスの赤ちゃん、なぜ鳴くの コケコッコのおばさんの あ~かいお帽子欲しいよ、・・・・おそらくこうした日本の童謡は世界に類を見ないほど、優しさのこもった童謡であろう。・・・・・・昔、父がカラスを飼っていた。飼っていたというより、カラスが勝手に来て父が餌をやっていたのであろうと思う。ある時、何日かカラスがいなくなった。そうこうするうちに「迷子のカラス」ということで新聞に載っていたのである。そのカラス、迷子になったのはいいが、そそっかしいカラスは、父親のハゲ頭とどこぞの人の禿げ頭を見間違えて、その人の肩に降りて行ったようである、びっくりしたであろう、その人は、捕まえて、警察に届け、かくして新聞種になったという次第であった。新聞を見た父は、自転車に乗って随分離れた隣町まで、不良息子を引き取るように迎えに行った。・・・遠く、旧い昔の話である。・・・・アシジの聖フランシスコは、小鳥たちに説教した。ヨーロッパの子供たちはこの聖人が大好きで、動物とお話出来たと信じている、彼の伝記を読むと大人向けに書かれた書物の中にも、そうした逸話が大真面目で、載っている。

 

 

3月25日(月):ミラボー橋


ミラボー

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

われらの恋が流れる

わたしは思い出す

悩みのあとには楽しみが来ると

 

日も暮れよ、鐘もなれ

月日は流れ、わたしは残る

 

手をつなぎ顔と顔を向け合おう

かうしていると

二人の腕の橋の下を

疲れたまなざしの無窮の時が流れる

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

流れる水のように恋もまた死んでいく

恋もまた死んでゆく

命ばかりが長く

希望ばかり大きい

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

日が去り、月がゆき

過ぎた時も

昔の恋も 二度とはまた帰って来ない

ミラボー橋の下セーヌ河が流れる

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

アポリネールの詩:訳堀口大学。昔、どこかで覚えたミラボー橋の詩を思い出し。載せてみた。

 

3月22日(金):Taj Mahal

【インド北部のアグラにあるイスラム教の廟堂、ムルガ帝国の第15代皇帝シャー=ジャハーンが愛妃のために1632年より建立。装飾美術の粋を集めた華麗な建物として有名(広辞苑)タージマハルとは、その呼名も美しいが、惨劇があった。インドのムンバイで同じ名前の、タージ、マハルホテルが、襲われ200人近い人々が亡くなった事件があった。9:11に、アメリカの国際貿易センターが崩壊した時、あるアメリカ人が言っていた。「アメリカがこれほど憎まれていたのか」と。多くの人はアメリカ人が大好きである、しかし、少なからぬ人々がアメリカと言う国が嫌いなのである。アメリカがこの落差に気づいていたかは別にして、和解の道を選ばず、最初のボタンを掛けたがえた。それから、どれほど多くの人の血が流されたことか・・・・

タージマハル、シャハーン帝の愛したマハル姫、この薄命の妃のために帝は国の財力が尽きるほどまでにしてこの廟堂を建立したという、自分の廟堂は建立出来ず、命尽き、マハル姫の傍らに眠っているという。マハル姫はかくも美しかったのか、その傍らに眠る帝のみる夢は・・・・

3月18日(月):絶筆

『風で寝床に臥せりながら、上原和著「斑鳩(いかるが)の白い道のうえに」と言う本を読んだ。』と言う書きだしで始まる「天声人語」の文章が深代氏の絶筆となった。この本は聖徳太子の悲劇を描いた本である。その一族は皆殺しにされるという悲惨な運命をたどるが、その太子ゆかりの「法隆寺」をもう一度訪ねてみたいと、この筆者は「天声人語」を締めくくっている。風邪で臥せっていると言いながら、この人は何故か自分の病気のただならぬことを薄々気づいていたのではないかと、思わせられる。・・・・また、この人は、大佛次郎の絶筆についても、天声人語に書いている。当時朝日新聞に連載されていた天皇の世紀と言う大作、まさに、大佛次郎がライフワークとして渾身のおもいをもって書き続けていたものである。著者がどこかでインタビューを受けていた。「先生、この連載はいつまで続くんですか?」との問いに、「僕もわからないんだよ」と答えておいでだったようである。この途方もない連載が、休載になる前に書かれていた場面は、明治維新北越戦争、官軍を迎え撃つ、河合継之助の最期の場面である「火を斌(さかん)にせよ」と呟いた河井の死を締めくくったのが、司馬遼太郎であるが、大仏氏はもう少し、悠然としていた。関係者は、大仏先生が、継之助の最期を書けるのか、その前に先生の命が尽きるのか、固唾をのんで見守っていた。連載、1555回目、休載とフエルトペンで、書き記し、筆を置いた。先生はその二週間後に静かに息を引き取ったという。・・・

負け戦は初めから分かっていた、河合継之助、越後人の最期の抵抗を、サムライを描いていせた。大仏先生は、継之助同様に従容としておられたのであろう。大仏次郎(おさらぎじろう)。深代惇郎(ふかしろじゅんろう)、司馬遼太郎三者三様に私にとっては師であったように思う。・・・・

深代惇郎略歴』。昭和4年生まれ、28年三月、東大法学部卒、同年朝日新聞入社、横浜支局員、東京本社社会部員、」リンド院、ニューヨーク各特派員、東京本社社会部次長、などを経て、43年論説委員、46年ヨーロッパ支局長、48年論説委員、同年2月から50年11月1日、入院するまで「天声人語」を執筆した。50年12月17日、旧制骨髄性白血病のため死去。

 

3月15日(金):清貧の人

イリアムズは、1829年アメリカに生まれました。父は彼が幼い頃に戦死し、母の手一つで育てられました。母の信仰を見ながら育ち、24歳で宣教師になることを決意し、最初は中国へ渡りましたが、1859年(安政6年)に日本への最初のプロテスタント宣教師としてやって来たのでした。当時の日本はまだ、キリスト教を信じることを禁じている時代で、その高札が立てられ自由な伝道は出来ませんでした。それで、ウイリアムズはことばによらず、行いによって伝道することを心掛け、どんな人人へも親切を尽くして助けました。・・・・・

『清貧の生活』。ウイリアムズの月給は月700円でした。それでも彼は毎月15円で生活しました。いつも粗末な食事で済ませ、冬はストーブも焚かず、服はと言うと、いつも古着屋から買っていました、また、古ぼけたカバンを下げて旅行に出かけるので、しばしば、「西洋乞食」と間違えられました。ある時、駅の待合室で、「乞食坊主は向こうへ行け」と駅員に叱られて、言われるままに、待合室の片隅にいたのですが、大勢の信者さんが見送りに来たので、その駅員はビックリして、恐縮してしまったというようなエピソードもあったようです。・・・・ウイリアムの家には炊事の人がいて、買い物をして帰るとしばしば、もっと安いものをに代えて来るように言れるので、炊事人は我慢できなくなり「どうぞお暇をください」申し出ました。「仕方がありませんね」とウイリアムズは言って、一冊の預金通帳を渡してこう言いました「これは買い換えてもらった時に浮いた分をあなたの為に貯えておいたものです、」。それを聞いて炊事人は驚いて、自分の不心得を深く詫びて、それからは、忠実に仕えたということです。ウイリアムズはあまり日本語は上手ではありませんでしたが。しかしその話し方には不思議な力がありました。また、誰でも彼を見ると、イエス様を見るような気がして、仏教のお防さんまで、その人格にうたれて合掌したということです。彼は30歳で日本へ来て、79歳まで力の限り働き通したので、頭も体も動かなくなり困難を覚えるようになりました。このままだと、人の厄介になってしまう、それは避けねばならないと考え、ひそかに日本を離れ、母国アメリカで日本の救いのために祈り続け82歳で眠るように天に召されました。・・・・・・

イリアムズに関する、逸話と美しい詩が遺されている。それを紹介しよう。

イリアムズ監督は

築地の赤い煉瓦造り

蔦が一面にはえ繁った

古びた建物の二階に住んでいた

そこには道を一つ隔てた立教女学院

寄宿舎からもよく見えた。

 

朝6時になると

イリアムズ監督のお部屋の「窓が

夏冬問わず開いた

夜の十時になると

必ず電灯が消えた

立教女学院の寄宿舎では

朝がくると 舎監の先生が叫んだ

「監督さんのお部屋のお窓が開きました

さぁ、皆さん起きて・・・・・」

夜が更けると

「監督さんのお窓の灯りが消えましたよ

いつまでもお話しないで、

さぁ、早くおやすみなさい」

と言った。

みんなの目と心が

いつも老いた聖者の物静かで敬虔な

一挙一動に向けられていた。

3月9日(土):ヨナ書の主題

この前の説教主題は、ヨナ書の主題ということで話した。最近旧約聖書から少しずつ話すようにしている。信徒さんもなかなか、旧約を読む機会もなく、正直たとえ、読んだとしても、その内容を把握するのは非常に困難である。牧師自身にしてもそれは同じなのだが、いろいろ、解説書を持っているだけに、何とか読み込める部分もある、というのが実情だ。・・・・さて、ヨナ書であるが、全体を見ると、感じることは、イエス様の譬え話に似ているということである。ただ、かと言って、このヨナの出来事を、譬え話だけに留めておくのには無理がある。それは、イエス様自身がこの、ヨナ書に言及しておられること。それに、旧約には、ヨナが実在の人物であることが、書かれている。そんなわけで、このヨナ書自体を、単なる、空想、作り話、比喩的に捉えることはできないということが分かってきた。・・・・・ヨナについては、その預言者として資質が問われている、いわゆる、その「性格の悪さ」。「神への不従順さ」。「頑固さ」。旧約の他の預言者とは全く異なる資質がいくつもあげられる。・・・・・こうした事柄を勘案しながら、それではこの書の、「主題は何か」と問われれば、『神があなたの敵を赦す、と言うことをあなたは受け入れられるか?」。と言うことなのだそうである。要するに、ヨナはあの暴虐の都市、ニネベを、どうしても赦すことはできなかった。たとえ、自分の命を懸けても、「ニネベは滅ぶべき」。それに対する神の回答は、その最終節にある。すなわち。『主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜に生え、一夜で滅びたこの党ゴマをさえ惜しんでいる。まして、わたしはこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか』。最後に、一つ気がかりな事がある、果たして、ヨナは神の最後のメッセージをどのように受け止めたのかと言う問題である。それはこの書の作者が誰であるかに、絞られる、この書をヨナ自身が書いたのであれば、当然ヨナは、神の最後のメッセージを受け入れ、悔い改めたことであろう、その証としてこの書を書いたと認めることができる。しかし、一方、第三者が書いたとすれば、ヨナは、旧約時代神に逆らった、性格の悪い、預言者としての見本にされた、ということになる。さて、どっちなのかな?。

 

3月7日(木):出自

 

歳とったせいか、このところずっと昔のことばかりやたらと思い出す。そうかな?。とちえ子に聞くと「そうだ」。と言う。聞かなければよかった。・・・・母方の祖父は、神官で、教育者で田舎のことではあるが、教育長まで務めた人である、代々そうでその息子も同じであったが、わたしの覚えているのは、宗教家としての「威厳」のある祖父である。母に連れられて実家に行くといつも、祖父に挨拶するように言われた。「よっちゃん、おじいちゃんに挨拶して」と。そう言われて、床の間に入って行くと、祖父は床の間に正座して待っていた。奇妙なことに誰から教わるでもなく、私は祖父の前で正座し、畳に頭をこすりつけるようにして挨拶したものであった。今の時代「孫」と言う歌が出来て流行り、世の中は、おじいちゃんが孫に頬ずりするような時代である。・・・私は、幼い心の中で、この人は神様にお仕えしている人なのだな、とおぼろげに感じたものであった。・・・・ちえ子の姉、川村さち、川村牧師につらなる人たちおられたのは、牧師を目指す者にとっては、どれほど支えになったかははかり知れない。「身内」に、牧師4名、宣教師1名、まことに心強い。牧師は特殊な職業である。およそ、同僚の牧師、よほど肝胆相照らす中でもない限り「厄介」な存在である。善意のかたまりのような、信徒さんの言葉は、牧師の心臓を射抜く、優しい信徒さんに囲まれていると、いつの間にか、裸の王様、になってしまう。・・・・それでも、これまで、多くの人たちの出会いを通してここまで、来られたのかもしれない。その一つ、一つの出会いを、今は、なるほど、なるほどと思っている。