イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

2月13日(土):十字架上の七つの言葉

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十字架上で主が語られたお言葉は次の通りになっている。

【父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです】(ルカの福音書22章34節)

エスの語られた七つの言葉は、朝の9時から午後3時まで、6時間の間に語られた。初めの三つは9時から12時までに語られ、12時から3時までは、地上の全面が暗黒になった。それから第4番目の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の叫びが発せられ、続いて矢継ぎ早に最後の三つの言葉をもって終わられた。前後6時間の間に、わずか七つの言葉では少なすぎるとも思うが、それぞれに深い意味を見いだすことができる。・・・・・・・

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この十字上のお言葉は、主の明確な意識のもとに語られたものであった。十字架は主が神に対する最後の服従の行為であったから、たとえ短くとも注意に価する。さらにこれらの一つ一つの言葉には、少しもわざとらしさがない。きわめて自然なことばである。

普通偉人の最後の言葉には、飾りがあるが、福音書の記者たちは、ありのままを書いている。そこが信用してよい所である。そして、これらの言葉は実に多くの人々に感化を与えている。この事の意味は大きい。ある学者はこの七つの言葉を注解して次のように書いている。第一は、祭司的執り成しの言葉、第二は、王的権威の言葉、第三は、摂理と孝心の言葉、第四は、霊的苦悶の言葉、第五は、肉体的苦痛の言葉、第六は、勝利の言葉、第七は、平安と信頼の言葉、であると言っている。・・・・・・

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【父よ彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです】

バビニの「基督の生涯」を見ると、「人間が生まれて、祈り始めるようになってからこの方、いまだかつてこれ以上の神聖な祈りが、天にあげられたためしがない。実に、それは人間の祈りではなくて、神に対する神のそれである」と言っている。・・・・・

自分を殺す者をゆるす、すなわち敵を赦していくという、この最も困難な教えを、主イエスは、最後にその死をもって教えられている。この言葉は十字架上でただ一度だけ言ったのではなく、いまなお、この言葉は我々の罪のために、とりなす主の祈りである。

【何をしているのかわからずにいる】のが人間である。キリストの心を傷つけているのがいかに恐ろしいことか、キリストを殺すことがいかに罪深いことであるかを、とうてい我々は知り得ないのである。・・・・・・・

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 アダム以来罪に浸っている我々には、神の子の霊を受けない限りは、何をしているのかわからない盲目の群れである。キリストを殺すことがいかに罪深いことかを、到底我々は知り得ないのである。・・・・・・・・・

十字架上の第二のお言葉は、盗賊に対しての罪のゆるしの宣言であった。この盗賊に対して「きょう」わたしと一緒にパラダイスにいるであろう、と言われた。過去の罪の生涯が一日も早く去らんと願っている彼、一時も早く苦痛を逃れようと思っている彼にとって、「きょう」とは実に強い慰めの言葉であった。パラダイスは元々ペルシャ語で、楽し土地を、あるいは美しい楽園の意味を持っていたが、「御国」と言ってもこの盗賊には理解出来なかったであろう。ここにイエス臨機応変な叡智を見ることができる。

第三番目のお言葉は、母マリアに対する思いやりで、弟子ヨハネに対してその後顧の憂いのないように願ってるお言葉である。誰かキリスト教が、親不幸を教えるというのか、最後の時にもイエスが母を思う情愛を示す言葉である。弟子のヨハネに託したのは、まだ自分の弟妹が、豊かな生活でなかったかもしれない。むしろ、まだイエスを信じていなかったからでもあるかも知れない。・・・・・・

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第四番目の言葉は、エリ、エリ、ラマ、サバクタニ。である。ここで著者(島村亀鶴師)はいろいろ例話などを用いて解説を加えているが、この1ページ半の部分を削除する。私の理解に合わないのである。不思議に思えるかも知れないが、イエスのこの、叫びは、究極の部分で、これほどの慰めを受ける言葉はない。人は、信仰者は、命の瀬戸際に立たされた時、大抵こう叫ぶ「わが神、我が神、どうして私をお見捨てになるのですか」。これまでどんなにあなたにお仕えして来たか、ご存じのあなたが、私をお捨てになられるのですか。人生の苦難の日に、そのように祈った人もきっといるはずだろうと思う。そんな時には、イエスもこのような祈りをなされたのだと、思い起こすとき、不思議な平安が私たちを包む。・・・・・・

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第五の言葉は「わたしはかわく」である。これは、我らの愛が、祈祷が、伝道が奉仕が足りないから、主は今も「われかわく」と言われるのではあるまいか。としている。

第六番目のお言葉は、「すべてが終った」である。これは完成したとの意味であるという。しかしこの完成は、キリスト者にとって主の御業の完成への出発点と考えられるとのことである。

第七番目の言葉は「父よわが霊を御手に委ねます」。これは信愛の情の深いものがある。完成したわざに対する喜びがあり、信頼の平和がある。十字架上の七つの言葉は、父より始まって、父よで終わっている。いかなる時も神を父と呼ぶ者に、真実の平安がある。

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このブログも昨年の2月に始めてから、もすぐ一年になる。この間一日も休むことなく書き続けてきた。凡そ書き終えるのは、夜中になる。朝は、およそ3時半に起きて、祈りに備える。二月ほど前から、夫婦で祈っている。よく体が持つなとご心配もいただくが、そこは抜け目なく、昼に1~2時間休む、これで結構健康は維持される。感謝なことであるが、一年をめどに今後のことを考えていきたい。しかし、恵まれた楽しい日々であった。

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2月12日(金):神の恵み その価

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『神の恵みは、地上のものを味わう人には与えられないこと』

イミタチオ・クリステイ。第3巻53章

Ⅰ・・(キリスト)わたしの恵みは価が貴く、世俗の事物や地上の種々な恵みと、混同するのをゆるさない。それゆえ、もしもお前が神の恵みをそそいでもらいたく思うなら、それを妨げるすべてを捨てねばならない。自身のために人気のない所を求め、ひとりだけで住むのを愛し、誰とも話し合わないようにつとめなさい。それよりも、改悛した心性と清らかな良心を保つために、神に敬虔な祈りを熱心にささげなさい。全世界を下らぬものと評価して、神への奉仕を他のどのような外部のことより、重んじなさい。

なぜならば、お前は私に仕えながら、同時にかりそめの過ぎ去る事物に興じることはできないからだ。知り合いや愛する人たちから遠く離れて、自分の心をあらゆるこの世の慰めから引き離しておかなねばならない。(マタイ19:29)かようにして、聖なる使徒ペテロはキリストの信者たちに、まるで他国の人や、旅人でもあるかのようにこの世ではふるまうことをすすめたのである』(Ⅰペテロ2;11)

【愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい】

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Ⅱ・・ああ、もし人がどんなものへの愛着によっても、この世につなぎとめられていないならば、死に臨んで、どれほど大きな安心を得られようか。だが、このようにすべてを捨てた孤独な心を持つことは、心の弱い人にしてはなかなかできない。動物的人間は、内的な人の自由を理解しない。だが、もし人が本当に精神的人間になりたいと思うならば、遠いところに住む人も近くにある知人も見捨てて、誰よりもまず自分自身に警戒せねばならない。もしもお前が自分自身にうち勝てるなら、他の者たちをもっと容易に征服できよう。完全な勝利とは、自分自身に打ち勝ことである。なぜなら自分自身をいつも服従させておき、こうして感覚を理性に従わせ、万事に理性を私に従わせる者こそ、真に自己を克服した者、この世の主人なのである。

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Ⅲ・・もしもお前がこの頂上まで登りたいと切望するなら、最初から男らしくしなければならない。そして、自分自身と、すべての自分だけにかかわる物質的な幸福をのぞむ、ひそかな常軌こえた(烈しい)欲望をもぎ取って打ち砕くため、その根に斧をあてねばならない。人間が自身をやたらに常軌をこえて愛おしむという悪徳から、ほとんどすべての悪が生じてくるので、それで何としても根本的に克服せねばならないものだ。この悪さえ完全に克服され、抑制されたら、大きな平和と静穏がすぐに至ろう。さりながら、自分自身を完全に殺そうとつとめ、自分を越えた境地に向かおうとする者は、わずかであるため、たいていの人はいつも自身にかかずらって、その結果、自分を乗り越え精神的高みにのぼることはできない。だが、私といっしょに自由に歩みたいと志す者は、自分の邪悪な常軌をこえた愛情を屈服させ、どんな被造物に対しても、私な愛情をもって、情欲により執着することがあってはならない。

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イミタチオ・クリステイ(キリストにならいて)は、500年ほど前に、一修道士によって書かれた書物である。トマス・ア・ケンピスによって書かれたとされているが、異論はある、しかし、誰によって書かれたかということよりも、「何が書かれているか、そのことより、何が言われているのか、と言うことが重要なのだとこの著者は語っている。この「名もなき」修道士の著わしたものが聖書に次いで多く読まれているいることは驚きであるが、日本においてはキリシタンの時代にすでに翻訳されているが、現代ではあまり知られているとは言えない。何事も「権威」が尊重される時代になったのかも知れないが、この埃っぽい一冊が、自分の座右にあることは、ささやかな誇りである。その道は果てしなく遠いけれど・・・・・

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2月11日(木):内なる生活 アンドリュー・マーレー

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『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます』(マタイ6章6節)

内なる生活は、最も重要な思想を暗示します。毎日退いて、静まることの必要、真の祈りの霊、神のことばである聖書をデボーションで読むこと、そして、神との交わり、これらの要素はみな、私たちのデボーションを、喜びと力の源とするための役割を果たしているのです。この小著で、私は、この真理を系統的に取りあげようとしているのではありません。私が与える断片的なものが、内なるいのちおよびそれを神との交わりの養成にになんらかの助けをもたらすことを望んでいるのです。私たちの住んでいる南アフリカの国では、オレンジの木を種々の病気が冒しています。そのうちの一つは根の病気と言う名で一般に知られているものです。木はまだ実を結んでいるかも知れず、普通の人が見ても、何も悪い所に気付かないかもしれません。しかし、専門家には、徐々に死が始まっているのが分かります。葡萄園のフィロキセラは根の病気です。そして、この古い根を切り捨てて新しいものを与えるほかに療法はないことが見出されています。葡萄の古い種類は、アメリカ産の根に接がれます。幹も枝も実も前と同じですが、根は新しく、病気に抵抗するこようなとがわかってきます。病気にかかっているのは植物の目に見えない部分で、治療はそこに求めなければなりません。

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キリスト教会とそれに属する数千の会員たちの霊的生活がこの根の病気・・・神と人とのひそかな交わりの無視・・・にどんなに苦しんでいることでしょう!。クリスチャン生活でこの世に抵抗することの弱さを説明するものは、ひそかな祈りの欠如です。豊かに実を結ぶことの失敗を説明するのは、「キリストの中に根ざし」「愛に根ざし、愛に基礎をおいている」隠れた生活の維持がなおざりにされているということです。信者の生活において、これを変えることの出来る唯一のものは、密室の回復です。クリスチャンが、神とのひそかな個人的交わりを主要な関心ごととすることがどういうことか学ぶにつれて、真の敬虔さが現れて來るでしょう。「根が聖ければ、枝も聖いのです」もし朝の時間が主に対して聖いなら、勤めを持ったその日もまたそうなるでしょう。もし根が健全なら、枝も健全になるでしょう。

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2月10日(水):ニムロデの野望

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バベルの塔

誰でもそうであるように、猟師ニムロデもはじめは小さな男であったのだろう。

古代社会においては、村々は点在し、いくつかの家族単位で集落を形成していた。

その集落は多くは孤立していた。野獣の数が人々の数より多かったであろう。

猟師ニムロデは、かの集落を野獣から護る役割を担っていた。・・・・・

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「猟師」とは、我々が今日考えるハンターとは、全く意味合いが違っている。銃を肩に、ハンチング帽をかぶった、現代の「鉄砲撃ち」とは異質の人たちである。ニムロデは、村落を護る狩猟者であった。古代社会においては、人の数より野獣の方が多かったことであろう。人々はたえず、野獣の脅威にさらされていたのである。小さな集落は、ひとたび野獣に襲われたらひとたまりもなかったであろうことは、容易に推察される。猟師ニムロデは、そうした集落を護る者であった。彼は武器をつくり、勇敢な若者を集め、絶えず集落を護る者であった。こうして、「狩猟の強者」は次第に人々から英雄視されていくようになるのである。・・・・・・・

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カナン定着後でさえ。イスラエルが背教するとき、神はその罰を「わたしはまた野獣をあなた方に送るであろう。それはあなたがたの子供を奪い、また家畜を滅ぼし、あなたがたの数を少なくするであろう。あなたがたの大路は荒れ果てるであろう」(レビ記22章22節)このような脅威は、絶えず人々の住む地に存在した。いわゆる「自警団」ニムロデの働きが人々に歓迎され、また英雄視されていくにしたがって、彼は人民の保護者、文化の守り手、時代の救世主となって行くのである。・・・

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アッスリヤの王、テグラテピレセル一世(前11世紀)は、四頭の雄牛、十四頭の象、九百二十頭のライオンを狩りとり、その勇気と力を見せつけました。「狩猟の強者」とは、敵に当たる勇気と力、民を守る才能と資格を備えた大王を表す古代の表現にほかなりません。こうしてニムロデもまた、人々を野獣から保護すると同時に次第に、彼らを支配するようになっていき、権力者となっていったのである。・・・・・

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しかし、「主にあって、力ある猟師ニムロデ」は、それは神からの賜物であることを忘れてしまったのであろうか。ひとたび権力の魔力にとりつかれると、豹変する王たちの例は、数え上げたらきりがない。ニムロデもまたその例にもれなかったのである。元々、ニムロデという名は、へブル人にとって「我れ我は反逆しよう」という意味を持つものだと理解されている。「そのうち彼らは言うようになった。『さぁ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから』と言うようになった。権力者が神への反乱の狼煙をあげたのである。石の代わりにレンガを作る技術、粘土の代わりに瀝青を用いる才覚を身に着けた。・・・

如何に古代人と言えども、天に届くほどの塔を造れるはずのないことは知っていた。それにもかかわらず、そうした塔の建設を始めたのは、明らかに神への反逆であった。権力者ニムロデが、己の権勢を誇示するためのものであった。人民にとって、よき保護者、救世主として尊敬されたかも知れないとしても、神の前では「反逆者」でしかなかったのです。

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『そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らはみな、一つの民、一つのことばで、このようにことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さぁ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた』

(創世記11章5節~8節)

天に届くと豪語した塔も神からみれば、わざわざ降りて来なければならないほどの地表の突起にすぎなかった(これは、皮肉である)。われわれにとって人民が一致団結することは美徳のように思えるが、その目的が、ニムロデの自己の権勢を誇るためのものである限り、彼らは神の意に沿う者とはならず散らされることになった。それは彼らのことばを混乱させられたとある。このことは重要である。実際彼らのうちに、例えば、フランス語、英語、ドイツ語などを話す者たちが現れ、意思の疎通が出来なくなったと考えることもできるが、実際的であったとは思えない。むしろ、それぞれの言葉の概念が変わって行ったと考える方が理解しやすい。美的感覚について、塔の建設の方法について、各人各様の意見を持ち始め、混乱を招いたと考えるほうが妥当であるように思える。・・・・・

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今日でもバビロニア地方には、三十数個の「ジックラットゥ」と呼ばれる人工の山または塔の遺跡がある、それらは何十メートルもの高さまで階段状にレンガを積み上げた四角錐で、頂上には神殿があるという。しかしながら、その塔は建設者の「名をあげる」ためのものであったところに大きな誤りと、罪があった。このニムロデの物語は先に書いた「サクラダ・フアミリア」の対極にあると、私は考えている。ガウデイは神の栄光をあらわすために「神の聖家族教会」として、建設完成まで300年もかかろうとする塔を建設しようとした。壁には美しいステンドグラスがはめ込まれているという。2026年の完成予定だという。最終的仕上がりの陣頭に立っているのは、日本人の、外尾悦郎という人物である。彼はガウデイの遺志として、最上階で見上げるとき、イエスの愛が分かるようにと心がけているという。完成の暁に、私はその報道を聞きたいと願っている。ニムロデの故事はただ遠い昔に起こった事だけで済まされない、神のみ旨が今も示されているような思いにさせられる。

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いわゆる、グローバルということが言われて久しいが、世界がその発信地であるアメリカに従属していく様子は、この者には、ニムロデの幻影を見ているような気分にさせられる。やがてグローバルなる波が世界を覆うのであろうか・・・昔九州の方から出てきた、無学なと思えるこのおばぁちゃんの言葉が忘れられない・・・曰く。『わたしは群れない』と。地方の片隅で生きていくつもりなのだろう。

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2月9日(火):福音のはじめ

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「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」マルコの福音書はこの書き出しで、「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える」というマラキ書の3章1節にに出てくる言葉の引用をもって始まる。イザヤの書と記されているが、実際はマラキ書の言葉である。このマラキ書3章は、世界の終わりについて書かれたものである。この世は今のままで永遠に進んで行くものではなく、神によって終わる時があり、そして新天新地が開かれる時があるというのが、聖書のこの世に対する見方である。これがマルコの冒頭に引用されているところに、終わりから始まる福音の真理がある。

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うっかりすると、私たちはこの世のことに熱心になるあまり、自分の力でこの世を支え、地球でさえ動かせるように思うことがある。しかし、実際は神が世界を支配しておられるのであり、また、歴史をも支配しておられるのである。もちろん、神がすべてをしておられるのだから、私たちはもう何もしなくていいということではない。私たちは、この神こそがすべてを支配しておられるということを、未だ知らない人々に向かって語っていく責任があり、また神の御心がこの地上において成就するために、主の示された愛と正義、そして真理の実現のために働いていくのである。

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しかしそれはも最終的目的ではなく、きたるべき世の終わりまでの暫定的なことなのである。どんな素晴らしい理念を語られても、実際の現実の世界はいろいろ問題を抱え、間違いもあり、不徹底である。これは人間の世界の真相なのだ、人間がどんなに一生懸命知恵を尽くし、力を尽くしたとしても、完全無欠の理想世界のようなものは出来ない。ただ、それは今より少し良い結果が得られるのではないかということに過ぎないのだ、私たちの為すことは、常に本当の最終のものではなく、本当の最後への一つの過程であることを忘れてはならない。最後には、必ず神の裁きがなされるのである。私たちはそこに立っている信仰であることを、思い起こさなければならない。福音というものは、必ず世が終り、新しい世界が來るとい信仰の上に立つものであって、それがくじけてしまうなら、一体福音とは何か、ということになってしまう。だから「福音のはじめ」として、最初にマラキ書が引用されていることは、重要な意味があるのだ。(榎本保朗一日1章)より。

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本来この一日一章は、字数にして倍くらいのものを、ご子息の恵先生が、編集を加えて、半分くらいに短縮して、あらためて出版したものである。アシュラム用として、朝のデボーションに用いるのは、確かに、この方が便利である。私も今年からこれを利用しているが、イマイチ気が乗らないのはどうしたことだろうと、考えあぐねている。

3年ほど前、日光オリーブの里で、アシュラムの集会があって、信徒さん達と出かけてきた。榎本恵先生と姉妹たちが来ておられた。父親である榎本保朗師のアシュラムの方式をきちんと継承しておられ、実り豊かな集会であった。アシュラムセンターは如何せん琵琶湖のほとりである。中々そこまでは行くのはむつかしい。行きたいとは願っている。そこへ行って、イエス様の香りにふれるように、「恩師」保朗師の香りにふれて見たい。体力的にいってここ1~2年が勝負だろう。アシュラム運動はもっと日本の教会で広められていければいいのだが・・・・以前そういう機運はあったが、結局いつの間にか尻つぼみになってしまったのが残念でならない。・・・・・・

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2月8日(月):信仰と救い

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信仰なしに救いが存在するかどうかという問題を、ルターから聞いてみよう。

『答えはマルコ16章16、へブル11章6,ヨハネ3章6,5章18,に与えられている。もし神が信仰なしに救われるとすれば、それはご自身のみ言葉に反対して行動されることになり、ご自分を否定されることになるが、それは不可能である。パウロが言っているように(Ⅱテモテ2章13)、彼は自分を偽ることが出来ないのである。神の真理があやまることがないように、信仰なしに救われることはありえない。しかしこのことは

死後に神が信仰を与えて救われることがあり得るかという質問とは別である。そのようなことがおできにならないと、誰が疑うことができるか。しかし、そうされるかどうかの証明は何もない』・・キリスト教教義学(H・ジェーコブズ著)

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何年か前、夜、一人の女性が教会を訪ねてきた。「まさ子です、まさ子です、」と言われてもすぐには思い出せなかった。無理もない、後に、彼女が計算したところでは、38年ぶりになるらしい、そう言えば、昔、そんな女の子がいたな、とおぼろげに思い出した。もとより、前の教会で私も信徒の時代であった。彼女は実家が隣町で、母親が入院したので遠い嫁ぎ先から看病のために通っていたのであった。それからしばらく、私たちの教会の礼拝に出ることになった。その内、いろいろ身の上話などもしたが、驚いたことに、彼女の弟さんが10年ほど前に自殺していたことを聞いた。キリスト教では自殺は認められいない。私は彼女がそのことについて、どれほど重い気持ちであったかは知らない。彼女から聞かれたわけではないが、そのとき、私はこのジェーコブズ博士が引用したルターの言葉を読んでいた。だから、「弟さんが救われないとは断定できない」と言った記憶がある。ルターの認識は確かに、矛盾しているが、きわめてギリギリのところで、苦渋の希望を、神の憐れみに賭けようとしているように思える。繰り返すが・・

『死後に神が信仰を与えて救われることがありうるかという質問とは別である。そのようなことがおできにならないと、誰が疑うことができるか、しかし、そうされるかどうかの証明は何もない』・・聖書のみ・・がルターの信条であったことは私たちも知ってりるが、それだけにこのような一文を記しているのは、神の憐れみの深さを識っていたからであろうと思われる・・・・・

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註:H・ジェーコブズ著。キリスト教教義学。第17章14項。

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 私の母も、洗礼を受けずに亡くなった。だが私は思うのである。御国へ私が入って、そこに母がいなかったら、そこが私にとって、心地よいところだろうか?。パウロが語っている。「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と。この言葉に望みを託してはいけないのだろうか。・・・・拡大解釈だと、だれが私を責めることが出来ようか・・・・

2月7日(日):花鳥風月

 

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パソコンの壁紙が最近頻繁に変わる。現在はフクロウの絵。面白いので、撮っておいた。自宅の裏の林にフクロウが棲んでいる。ホー、ホー、と鳴く。

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Iris、水仙、生命力の強い花なのか、植えもしないのに、毎年家の前の道路を飾る。ヘルマン・ヘッセの短編小説に、アイリスというのがある。彼の作品の中でも最も美しい物語の一つにあげられている。昔読んだが、暇になったらもう一度読みたい。

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このところ日差しも強くなってきたが、山はまだこんな状態。犬のまるが走りたがっているが、もう少しの辛抱だ。

 

 



 

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チューリップは、中庭に植えたが、球根を掘り起こさずにいたら、モグラが食べてしまった?

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クロッカスは、隣の家の庭に咲く。爺さんばあさんが亡くなっても、花は咲いている。

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猫のアルは礼拝後の愛燦会の人気者、猫なで声を出して、ご挨拶回り。いつもは寝てばかりいるのに。

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近くの田圃に群れている白鳥も、北帰行に備え、親鳥子鳥、数羽編隊を組んで飛行訓練が始まる

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マルの散歩コースにこのように鹿が出る。逃げ足が速いので、家のデブちゃんは追いつけない。

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ヤモリ・・家守・・どこにでもいる・・害がないので、殺さない。

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昨年夏、ちえこが育てた朝顔。少し、花がついた

 

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葡萄の木を植えていたが、祈りの家をつくるため、切ってしまった。移植すればよかったのだがそこまで気が回らなかった。

 

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早く雪が消えて野山を走り回りたいだろう・・毎日ごろ寝で太ってしまった。

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キジが向かいの林にねぐらをつくり子育てをしていたが、マルが追い払ってしまった。それでも少し離れた所に移住し家族仲良く暮らしている。それにしても、雄が何故こんなに派手で、メスは何であんなにみすぼらしいのか。人間社会と真逆。

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リスはいつもうちの周りを走っている。去年はクルミを全部もっていかれた。

 

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白鷺、アオサギは下の田圃にいつもいる。

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カワセミ。小森川の柳の下を翔んでいるのを見かけたことがある。真っ青な美しい鳥だ。滅多にお目にかかれない。

 

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キツツキも最近見なくなった。神社の森でコン、コン、木をつついていたものだったが。

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まぁ、まぁ、にぎやかなのね・・昔は退屈な町だったけど今は丁度いい。