イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月6日(木):洞察力

・・・・洞察力とは何ですか・・・・

【洞察とは、物事をよく観察して、その本質を見抜くこと。物事の奥底まで見通すことで、」つまり、ある状況の遭遇したときに周りをよく観察して、その状況を構成する要素を見抜く力】(Yahoo,知恵袋より)。

名古屋で運転免許の講習を受けた時、講師の先生が、運転の上手い、下手は洞察力にかかっている。と言われたことがある。なるほどと思ったほどである。警察関係の人にしては洞察力があるなと、思ったほどである。要するに、運転の上手、下手は前後左右をよく観察し、自分の車の位置を客観的に把握できているかどうかなのだろうと思う。・・

聖書を読む場合にも大切なのは「洞察力」である。昔、学生の頃、新約学を教えてくれた先生は「聖書を追体験的に読みなさい」と話してくれた。特に福音書においては、そこに記されていることに最大限の注意をはらい、その出来事を、劇場化、脚本化して再構成してみることだいうのである。そのような聖書の読み方をしている、その「劇場」で、今まで気づかなかったイエスのお顔が私たちは、改めて発見することができる、イエスの生き生きとしたお姿が、彷彿されてくるならばしめたものである。

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この5日は青森へ行って来た。三内の家を処分するため、不動産屋さんと相談した。結果は予想以上に厳しかった。150坪の宅地と建物、1200を予想していたが、現在の不況のあおりを受けて、どうやら、800ぐらいになりそうだ。元々兄から、相続したものだが、そう簡単に手放すことには抵抗があり、今すぐ処分しなくてもいいのかなと思っている、来年度、教会の隣の敷地が、自由に使えるようになれば、そこに教会を建てるつもりだから、処分は、2~3年延ばしてもさしつかえがなかろう。隣の土地は600坪ある。そこに仮小屋を建て、畑を起こし、半自給の生活ができそうだ、多分、ここが、終の棲みかになるだろう。もうあくせくすることもなく、たおやかな時間が流れていけばいいね。

 

 

7月3日(月):神童

【十歳(とう)で神童、十五(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人】。とよく言われる。田舎の学校で成績抜群、なかなか見どころのありそうな子を、今ほど開かれた社会でなかったためか、案外神童と思われた子がいたものだ。ジェーン・エァを書いたシャーロッテ・ブロンテ。嵐が丘を書いたエミリー・ブロンテ姉妹の兄、ブランウェルもそうしたうちの一人だったろう。既に妹たちは小説を書き、有名になっていた。イギリスの田舎町で神童と呼ばれていた彼は、勇躍ロンドンへ出てみたものの、右も左も神童だらけだった。ブランウェル程度の者はロンドンには珍しくもなかった。文学と絵画での成功を目指し、妹たちに続こうとしたが、どうやらその才能は持ち合わせていなかったようである。妹たちの成功を見るにつけ、コンプレックスは増すばかり、結局、ただの人にもなりきれず、酒とアヘンで身を滅ぼし、1848年31歳で急死した。・・・・・・・

明日は、青森に出かける。7月5日で兄が亡くなってから一年になる、墓参りと、兄の残した家屋敷をそろそろ処分しなければならない、直ぐに売却するのには抵抗があって、一年延ばしていたが、不動産やから三件ほど問合わせが来ている、そのうちの一つの担当者と会う。どのくらいの金額が提示されるか、わからないが、1200万ぐらいになれば、いいのだが、さて、どうなる事やら。それはそうと、兄も、小学の頃は神童とまで言われなかったが、小学時代は、ずっと「級長」と務めた、昔は、今のように選挙、などで選ぶのではなく、担任の先生が、成績優秀な子を指名したものだった。20年ほど前、兄たちの同級会があった。青森にいた兄が珍しく秋田まで来て参加した。酒豪だったが、珍しく酩酊して我家へ帰って来た。あれほど酩酊した兄を見るのは初めてだった。よほど楽しかったのだろう、それで酒が進んでしまったのだろう。送って来た同級生が「級長」。「級長」と呼んでいた。彼らはみな、「定喜」とは呼ばなかった。小学時代の呼び方そのままで、60年以上経っても、「級長」だった。

 

7月2日(日):笑いの泉

「カモメが百羽いました。一羽はカモメのジョナサンです。後の九十九羽は何というでしょう」答えは、「カモメの皆さん」。この答えを聞いて、げら、げら笑いだす人もいる、何が面白いのかと怪訝な顔をする人もいる。人がどんなことに可笑しみを感じるかは、世代により、文化により、人種により同じではない。笑いが「横隔膜の短いだんぞくてきな痙攣的収縮を伴う、深い吸気から生ずる」ことはわかるが、その原因は何であるかはむつかしい。古来、多くの学者がこの難問に取り組んできたが、なかなかうまい説明がない。近頃、「カモメのみなさん」式のクイズが、テレビや週刊誌で流行っているのは、どういう意味の社会現象なのだろうか、「ナンセンスクイズと」と自称するだけあって、他愛のない言葉遊びが多い。ワサビの効いた機知や、洒落たユーモァなりジョークなりを感じさせる知的なものはあまり見かけない。ナンセンスクイズの温床は予備校だという説もある。若い人たちが、こんなことでうさ晴らししているのかも知れぬ。・・・・

昔、明治の元号が決まったときに、上から見れば「メイジ」だが、下から見れば「治まめい」と言う意味の落首が出た。こういう可笑しみは、ダジャレ以上の何かがある。また、戦争中に「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」というポスターがあった。「工夫」の工のを消した人がいた。(戦時中で男が招集されいた時分)。夫が家庭にいなかったのである。笑いの中にほろ苦さ、もの悲しさがこもっている。「贅沢は敵だ」と言う標語には、「敵」の上にそっと、「素」の字を加えた者もいたという、これでこの標語は「贅沢は素敵だ」となった。こうした言葉遊びは庶民感情を伝えて歴史に残っている。笑いが、常に風刺である必要は少しもない。しかし、今の言葉遊びは、あっけらかんとしている。しらけた空気、自嘲的気分の中で、横隔膜だけがけいれんしているように筆者には思える。(昭和50年4月10日、朝日新聞天声人語より。深代惇郎。)

 

6月30日(金):総論賛成、各論反対。

【中国の民話】陳家で結婚式があるのでご馳走を出すことになった。陳さんが動物たちに相談したら、みんな大賛成だ。そこで「ガチョウを絞めよう」と言ったら、ガチョウは「ご冗談を、私は卵を産んでいますよ。

あそこに役立たずのオンドリがいるのに」と言った。オンドリは「何を言うのです。私は朝を知らせる神聖な役目がある。あそこに羊がいるじゃないですか、とトサカを立てた」。羊は「私の毛で、あなたがたは暖かい冬を過ごしているじゃありませんか」と穏やかに犬の方を向いた。犬は「なんて恩知らずだ、イタチの襲撃を防いでいるのは誰だかご存じか。

馬がいるじゃないか」と吠えたてた。馬は「あなた方が遠い所へ行けるのは誰のおかげだ、同じ背中でも、牛とは違う」と答えた。その牛は、「私なしに耕すことができますか」・・・・・・この話、どこまで行ってもキリがない。とにかく話が「御馳走」に戻る度に全員異口同音に「賛成」と言い続けたそうである。

 

6月26日(火):葉隠れ そのⅡ。平気でうそをつけ


平気でウソをつけぬようでは男でない。

山本前神右衛門(常朝の父)は人々に「ばくちをうて、うそをいえ、一町歩く間に七度ウソを言わねば男として役に立たぬぞ。」とだけ言っていた。昔はただ武勇の心掛けさえあれば良かったので、なまじ行儀ばかりよいような者には大きな仕事はできぬと思われ、このおように言っておられたのである。素行の良からぬ者に対しても、知らぬ顔して許しておき「よいことをした」などと言っておられた。相良求馬なども、悪さをした家来どもを赦しておき、次第に育てていかれたが、「そうした者でなければものの役にはならあぬものである。」と言っていたという。

【解説】・・・これも武勇と言うより蛮勇のすすめのようであるが、多少の脱線はしてもバイタリティーある人間の方が、貢献度が大きいと言いたかったのであろう。とりわけ若い間はそうである。これに反し、人格者とか、好人物とか言われる人は、とかく引っ込み思案で太業をなすことができぬとしている。・・・・・・・・

昔、自衛隊にいた時、大久保一曹と言う人がいた。岩手出身の人だったが、その人がそうした考えの持ち主であった。口癖でもないが「悪いことをする人間は、良い事もする」。私はその言葉を聞いてなるほどと思った。善事も悪事も、そのエネルギーは同じところから出て来る。彼は、飛行隊の直属上官であった。私は飛行隊の整備士であったが、整備の仕事をせず、飛行隊本部の事務方に配属されていた。そこでいろんなことを教わった。公文書の読み方、作り方、隊員への支援、調整、等々・・・・そうした中で、大久保一曹は、特別目をかけてくれた。それは、多分私が、「多少生意気」だったからであろう。誰の唄だたか忘れたが、「男は生意気くらいが丁度いい」というのがあった。自衛隊にはいろいろ、内務規定がある。そんな規定をいつも破っていた。が、さしてお咎めもなかった。ある時は、外出して、酒に酔い、9時までの門限に遅れてしまったことが、ある。本来ならば、懲罰の対象になるのだが、翌朝、彼は私を呼んで、本部の前の芝生に座らせて、注意しただけだった。そのやり方も、感動した、お互い向き合って、胡坐をかき、目と目を合わせてお叱りをを受けた。これも、どこか武士道精神に則った方法だろうと、その頃から薄々気づかされたものだった。・・・・・・

聖書的にいうならば、パルロのことが想いだされる、燃えるような思いでキリスト教を迫害した彼が、一転して、新約時代最大の布教者となったのも、同じことのように思われる。

 

6月23日(金):葉隠

武士道といふは、死ぬことと見付けたり。

武士道の根本は、死ぬことに尽きると会得した。死ぬか生きるか、二つに一つと言う場合に、死ぬ方を選ぶというだけのことである。別段、むずかしい事ではない。腹を据えて進むまでである。「目的を遂げずに死ぬのは犬死だ」と言うのは、上方風の思い上がった武士道である。二つに一つと言う場合に、絶対見通しを誤らぬなどということは、出来るものではない。もし、理由をつければ誰しも死ぬより生きる方がよいのだから、何とかして生きていられるような理窟を考えるであろう。そうして見通しがはずれ、しかも生きていた時には、あれは腰抜けだと言われても仕方あるまい。これに反して、死を選んでさえおれば、たとえ見通しが誤って犬死だ、気違いだと言われようが少しも恥にはならない。これが武士道を心得た者のとるべき道である。真に武士道を身に着けるためには、毎朝毎夕、繰り返し命を捨てた心持になる修行が大切である。このようにして初めて武士道が身につき、一生誤ることなく奉公をつくしおおせることができるのである。・・・・・

【解説】・・・冒頭の一句は葉隠れ,全巻中、最も有名な言葉である。と言うより、葉隠れと言えばこの一句だけしか知らない者が多く、自分流に解釈して、それが「葉隠精神」と思い込んでいる。とりわけ、第二次大戦中、この一句が多くの若者を死地にかりたてるスローガンにされた暗い記憶の過去があり、葉隠れと言うだけで反発を感じる人が多いようである。確かに、この言葉を現代に再生しようとするのは、時代錯誤も甚だしかろう。だが、この端的な表現の中から、当時の武士たちの価値観をくみとり現代の我々の生き方と比較対照してみることは決して無駄ではあるまい。「生命尊重」の掛け声に安住して実は生命が浪費されている現代に対する、痛烈なアイロニーとして受け取ることもできるのではないだろうか。それは、厳しい生き方を考えさせてくれる。

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この「葉隠」と言う書物を読んだのは、本のおくつけによると、「S40,9,7日」

とあるので、21歳ころのことである。原文に、訳がついていて、解説もある、本来なら、古文でとても読みこなせる本ではなかったが、何とか読んだ形跡ある。今日紹介したのは、最もポピュラーな部分だけで、全体的には、「奉公人」の心得帳みたいなもので、結構、ためになることも、多い、戦後、日本においては禁書じみた傾向もあるが、やはり、日本精神の根幹をなすものであることには変わりはない。・・・・・・

ちえ子から電話で、退院が早まるどころか、来週までかかるらしい。どうやら、全身麻酔に負けたらしい。まだ、しばらく、アルの機嫌を取っていなければならない。あいつ、わめき散らしている。紐を腰に下げて家中歩き回ると、つられてジャレているが、それも一時、会堂の椅子にふさぎ込んで、寝てばかりいる。次の礼拝は、」青森から、メッセンジャがくるので、その分楽だが、・・・・・・