イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月21日(金):幸坂公夫兄弟召される

7月19日(水)午後2時20分、敗血症のため、40年来友人、81歳。 召される。夕刻、婦人柳姉妹より、報告あり。 この12年ばかり、恩寵教会の客員信徒として、礼拝に集っていたところ、6月4日の礼拝と、聖餐式の与って以来、入院していた。 しばらく40度の高熱が続き。 医師もサジを投げた状態であった。 夫人も、大変な時を過ごしていた。 葬儀は、24日(月)大館ルーテル教会で行われる、出席し、挨拶、個人の思い出等を語ってくれとのこと、引き受ける。 昨年12月14日、千香子を送ってから、福原兄弟、に続き三人目。 写真は、公夫兄、千香子、柳、ちえ子。

 

7月17日(月):関東地区の三つの教会

1・・上の森キリスト教会。上野駅から徒歩、10分くらい。キリスト教会館ビルの中にある。そこには、JTJ宣教神学校も入居している。私の知り合いも何人かいる、こちらから行って、会員になっている人もいる。大きな教会で、重田とか言う人が主任牧師、JTJの学長、現役か前職か忘れた。

2・・相模原バプテスト教会相模原駅から徒歩20分ぐらい。単立、牧師は丸山悟志、奥さんは、頼子夫人、去年お嬢ちゃんと秋田へ遊びに来た。英語の達者な親子で、頼子は結婚前、宣教師に仕えていた。牧師は大食漢、人柄すこぶるいい。小さな三階建ての古いビルを買って、教会にしている。

3・・お茶の水クリスチャンセンター。これはFB上でも集会案内をしているが、お茶の水クリスチャンセンター内で集会を行っている、毎日、お昼の12時から、15分間、日替わりの講師が説教する。おもに、特定の教会をもたない信徒が集まっている。教師の何人かは知り合いである。集会人数は、講師によるが、数人程度。クリスチャンの友達作りなら、ここがいいかも知れない。お茶の水駅から、徒歩10分くらい。

7月16日(日):大雨警報発令

線状降水帯が秋田にやって来た。秋田はここ30年程台風もなく、毎年比較的穏やかな年が続いていたが、警報級の避難指示が出るのは初めて。今日で三日ばかり降り続いた。中央部には幾つかの被害があり、死者が一名出たけれど、思ったより被害は少なかったかなぁ~。礼拝も休むことなく行われた、美穂子さんが家が心配でおやすみ、あとは異常なし。いつものことだが、浸水被害のあと片付けが大変、見ているだけで気の毒になるが、頑張れ!!!!。

7月14日(金):イエスの肖像

 

キリスト教作家と言われる人々は、大抵「イエスの生涯」と言うものを書きたがる。そうした書物を何冊か持っているが、如何せん福音書に記されている、「イエスの生涯」なるものは、あまりにも限定されている。救い主の誕生の次第、30歳位になって宣教を開始したおよそ、2年~3年の出来事、それに12歳のときのエルサレム詣での記事。この三つだけである。33年の御生涯を書き記すにはあまりにも、「間」が抜けているのである。これでは、どんな作家も、その生涯について、書き記すことはできないのは当然だろう。・・・・・・・

しかし、随分昔に、この難問を解決してくれた人がいた。それが誰の書物であったっか、未だに思い出せないのは残念なのだが、確かにその書物を読んだ、そして「目からうろこ」と表現してもいいほどの衝撃を受けた。そこにはこんなことが書かれていた。「イエスの生涯」の欠けた部分を、洞察するには、イエスが語られた「譬え話」を読むがよい。と。福音書の中に、譬え話は、長いもの、短いもの合わせて39ある。そのたとえ話の中にイエスのお姿が見られるというのである。・・・・・・・・・

例えばこうである。一枚の銀貨を失くした女、彼女はイエスの隣に住むおばさんだったかもしれない。そして、膝をついて、家の中を一緒に探してあげたかあも知れない。また、放蕩息子のたとえ話、実際当時、隣の村で起こった出来事だったかも知れない。それが村々に噂となって伝えられ、あるところでは、面白可笑しく、揶揄されて語り継がれていた出来事だったかもしれない。・・・・・・・・

【天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです】(マタイ:13章)。この譬え話は、他のものと同様に、情景が写実的である。おそらく、ガリラヤ湖で、漁をしている漁師たちの一部始終を、イエスは、長い時間眺めておられたのであろう。猟師たちが網引き上げ、広げ、座り込んで、食べられる魚と食べられない魚をより分ける仕草をしっかり見つめている。食べられる魚は器に入れている。ダメな魚は、砂浜に放り出され、焼け付いた砂地の上を苦しそうに、ピヨン、ピヨン、と跳ね回っている。そんな情景をイエス様見ておられたのであろう、こうしたたとえ話の記述はどれも、非常に写実的であり。実際にその場に居合わせた者の、話であることが多い。そのような事柄から、39のたとえ話の、その中に、その情景の中に、そっと佇んでいるイエス様姿がある。・・・・・・たとえ話の中に、イエスがおられるとの、「思い」は、そうした聖書の読み方の重要なことの一つであるし、たとえ話の中にイエス様の姿を発見するのは、嬉しい事でもある。こうしたたとえ話を織り交ぜながらであれば、クリスチャン作家たちも、その生涯を書き記すことは可能であろう。

 

7月12日(水):動じない神に背負われて、慰められて

【あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたを造った。わたしが担い、背負い、救い出す】(イザヤ書46:3~4)

新型コロナ五類移行から一か月になります。私の手元には六回目の接種券がありますが、かかりつけ医師は以前より、積極的に薦めなくなりました。また、いろんな集会も対面形式になって来ました。世の中が動き出した感じがします。しかし、なかなかマスクを外すことができません。習慣でしょうか、用心のためでしょうか、はたまた世間を気にしているためでしょうか。・・・・

さて、私たちは、誰でも病を経験します。生まれつき健康なひとであれ、病弱なひとであれ、病を経験することにかわりはありません。遅かれ早かれ、あるいは多かれ少なかれ、肉体的であれ精神的であれ、私たちは病を経験します。私事で恐縮ですが、ここ数年体調に異変が生じ今まで経験したことがなかった週単位の入退院を繰り返して不安んあ日常を過ごしておりましたところ、今年の二月、妻が、教会の主日礼拝が始まる直前に倒れ頭が真っ白になる経験をしました。幸いにして皆様の祈りに支えられまして一命をとりとめ、今もなお左半身麻痺と言語障害の回復に努めております。・・・・・・

毎日の変わりない日常がある日突然襲われるとき、私たちは右往左往します。そんな打ちひしがれる時、神はイザヤを通して語られます。慰めと癒しのみ言葉に励まされます。【わたしの計画は揺るがない。私は動じない。私はあなたを負い、白髪になるまで背負う今のお目たちは歳老いて白髪となり弱り果てている】そんな変わらない神様に背負われて生きて行こうと思います。安心しながら、一喜一憂しながら生きている昨今です。(岐阜キングス・ガーデン 副理事長 河合 昇)

先日、久しぶりに岐阜キングス・ガーデンの理事長竹内伸秀先生かお便りをいただいた。上の文章は、会報に載せられているものである。皆、それぞれに80歳を越えている人たちでもあるようだ。突然そう言うことが起こるのである。幸い一命をとりとめたとのこと。幸いなことであったが、しかし、自分も含め、「突然の出来事」に常に心ぞなえをして行かなければないらないのだろうと、思わせられ、信仰をもってすべてのことに対処できるように、祈りを欠かせない。・・・・・・・

先生ご夫妻も、81歳、82歳、奥さまの難病の脚も小康状態のようで嬉しい限りです。先生たちが、秋田の地を訪れて下さったのは二年前の秋、楽しい思い出沢山つくることができました。今年また、おいでになるかも知れないので、祈りつつ待つことにしよう。

 

7月8日(土):満足ということ

【しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世にもって来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。】Ⅰテモテ6章6~8.

大昔、ギリシャの哲人たちは問題の核心を捕らえていた。エピクロスは自分自身についてこう語った。「小さなことに満足することを知らない者は、何にでも満足しない。わたしに大麦のケーキといっぱいの水をくれるなら、わたしはゼウスと幸福を競ってもよい」。またある者が幸福の秘密をたずねると、彼はこう答えたという。「自分の所有しているものに加えず、自分の願望を取り除け」。偉大な人々は常に小さなことに満足してきた。ユダヤ教のラビの教訓の中にこういうのがある。「金持ちとはだれのことか。自分のくじ(運命)に満足している者である。」。偉大な説教者、ラコロデールは言う。「現代の危険は小さなものに依って生きる術を知らないということです。古代の偉大な人々はたいてい貧乏でした・・・・神についても人についても、徳の美しさを認める心、これがどんなに外的な財によっても揺るがされることはありません。この時代が一番求めているものは、たとえ、すべてを持っているとしても、なお小さなことに満足できる人の姿です。わたしのことを申し上げて恐縮ですが、わたしは何も望みません。小さな家に偉大な魂、これが何にも増して私を夢中にさせてくれる理想なのです」。・

キリスト教は貧乏を奨励している訳ではない。貧乏である事自体徳ではない。また、生活の資を得るために絶えず戦わねばならないというのも幸福ではない。しかし、キリスト教は二つのことを弁護する。それは、幸福をもたらすのは物質の力ではないという叡智を弁護する。「多くの金持ちたちは、砂金で魂を窒息させた後で、憂鬱病で死んだ」。幸福は常に人間関係の中から生まれる。友情も愛も知らない者は、世界中のものを集めても幸福になれない。クリスチャンは知っている、幸福の秘密は物質ではなく人間にあることを。・・・・・

それは永遠に続くもの、死んでからも一緒の持って行けるものに専念することを弁護する。ギリシャンの詩人はうたった。「わたしは裸で地上に立った、わたしは裸で死の下に帰ろう」。スペインのことわざに「経帷子(きょうかたびら)にはポケットがない」。人間が持って行けるものは、二つだけである。自分自身と、ゆるがぬ信仰だけである。物質への隷属から解放されて、人々が友情と愛の関係に富を見いだすとき、また、われわれの最も貴い財宝はイエス・キリストによって与えられる神との和解であることを悟る時、真の満足がやって來るのである。(w・バークレー

 

7月7日(金):純情か真面目か!?。

【偉大な人物に共通な特徴は、「純情」でしかも「底抜けの純真さ」である。

(オルダス・バクスレー。英国の思想家)

神だけをひたすら見上げている人間の特徴は、単純で無邪気です。日本人は道徳的に真面目であることを非常に尊びます。道徳を守るには真面目も重要な条件ですが、神と共なる霊的生活を身につけるためには、むしろ妨げとなる場合が多いのです。自分が真面目でありたいために、絶えず自分というものが念頭にあって、すべての自分の言葉や行動も道徳家の堅苦しさと、人を裁く冷たさがあります。・・・

自分に愛がないのに、自分を実質以上に見せようとして愛の振る舞いをしたりします。主が最も嫌われるのは、このパリサイ人の道徳的偽装です。白く塗った墓です。彼らには朗らかで、単純率直な天真爛漫さがありません。彼らはいつも自分の正しさが中心で自意識が強いので、くつろいで自由な気持ちにはなれないし、他人も彼らにはくつろいだ気持ちにはなれません。・・・・・

霊的信仰者は神の中に自己を忘れ、単純で自然でいられるが、道徳家は「真面目」に自分を作ろうと務め、いつも自分の周囲を見回して自他の批評を気にします。これに反して、霊的な信仰者は無邪気で神だけを見上げいるのです。イワンの馬鹿に似た霊魂の愚直さがあります。・・・・

人間対人間に対しては道徳的誠実は大切です。しかし、重要なことは、神に対しての人間の誠実だなんて問題になりません。むしろ、神が求められるのは、砕かれた霊魂であり、幼子のような魂です。・・・・・

聖書は「神は真実であるが、うまれながらの人間はそうではない。罪人である。それで新生が必要である」。と主張するのです。人間の不真実さに絶望し、もう人間には何も残らない。何も無くなった人間には、せめて、罪に泣く純情くらいしか残らない、かくて、神の救いの機縁が熟するのです。・・・・・・

神の祝福を受けやすいのは、「真面目」型か、「純情」型か?・・・・主イエス・キリストがいずれのタイプに一夜をくつろごうとされるか、わかりますか。「心の清い人は幸いです。その人は神を見るからからです」と主は言われました。「純真な心をもって神に近づくことが、非常に大切です。