イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

6月8日(土):遅々として


教会の拡張工事が遅々として進まない。無理もない、二年ほど前でも、「牧師の気力は240分と言う記事を書いているが、その頃でさえ体力、気力が半日程度だったのだから、80になった今はなおさらのことである。それにこの数か月随分怠けて、散歩すら殆どしていなかったので、10ッ歩歩けば足が痛むようなものである。とはいうものの、この一週間ばかりで何とか形が見えてきた。三坪ばかりの小さな建物の床を張り、窓を取り付け、外壁を三分の一ほど張ることが出来た。ここは、昔のような思いを捨て、じっくりと、根気よく取り掛かるしかないようだ。それにしても、シンガポールの家族が来ない。どうしたのだろう、5月30日に行くと、連絡があったきり、姿が見えない。・・・・建物の外観は割とうまくいった。只今、スマホが故障しているので、写真をupできないのが残念だが、なかなかのものだ。これをどのように活用していくのかこれからの課題だが、ただ、要するに、老後をここでのんびりした時間を過ごせればいい。

 

6月2日(日):赤い靴(靴)童謡

1.赤い靴(くつ)履いてた 女の子

  異人(いじん)さんに 連れられて 行っちゃった

2.横浜の埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って

  異人さんに連れられて行っちゃった

3・今では青い目になっちゃって

  異人さんのお国にいるんだろう

4・赤い靴 見るたたび考える

  異人さんに逢(あ)うたび考える

『赤い靴』は、1922年(大正11年)、野口雨情作詞、本居長世作曲で発表された童謡である。2006年(平成18年)に日本文化庁日本PTA全国協議会が「日本の歌百選」に選定された。4番の詩は原稿段階では「赤い靴見るたび思い出す」だったものを「考える」と直した跡がある。(自分的には前の方がいいと思う)。それに、昭和53年になって、発見された草稿には以下の5番もあった。・・・・・

5・生まれた日本が恋しくば

  青い海眺めているんだろう

  異人さんに頼んで帰って来(こ)。

この赤い靴の歌詞は、実話をもとにして書かれていたとの説がある。野口雨情は明治40年札幌の北鹿新聞社に勤務していた時、岩崎かよと知り合った。定説によると、岩崎かよの娘である「佐野きみ」(明治35年~同44年)がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。(岩崎かよの娘、きみが、佐野きみとなっているが、私生児である)。岩崎かよは静岡県の出身で、山梨県の紡績工場に働きに出ていたが明治35年身重となり、一人で帰郷し、きみを生んだ。やがて彼女は北海道に移民として渡り、そこで鈴木士郎と知り合い結婚した。彼と共に平民社運動にたずさわり、農場の開墾に携わった。その開墾生活の厳しさもあり、明治40年頃に娘のきみの養育をアメリカ人宣教師、ヒュエット夫妻に委ねることになった。しかし、宣教師夫妻が帰国することになったのだが、その養女になったきみは、結核に冒されている事が判明した。アメリカに連れ出すことが出来なくなってしまったのである。宣教師夫妻は、きみを鳥居坂教会の孤児院にあずけることになるのである。そして、きみは、孤児院で母親かよと会うこともなく、9歳で他界したのである。母親のかよは、娘のきみは、宣教師夫妻とアメリカに渡ったものとおもい、東京の孤児院で結核で召されたことを知らず、生涯を終えたと言う。・・・・

教会の拡張工事の時、ちえこが、CDを持ち出し、多分、森佑里の歌うこの「赤い靴」をかけていた。妙にもの悲しい、この曲を調べて見ると、なるほど、悲しい物語がそこにあった。まさに、日本の明治末期の、世相を反映しているかのような、一人の小さな女の子の、9歳の生涯があった。

 

5月27日(月):今日は雨模様

今日は、久しぶりに朝から雨模様、このところ晴天が続きであったが、最後の仕上げのコンクリート打設が出来なくなって、何となく休養日になりそうだ。この教会施設の拡張は、小さな居住棟(三坪)、それに付属するカーポートの設置、水道施設、まで出来上がった。ただ、居住棟の外装、内装は自分でやらなければならない。まぁ、そこのところは本職だから、時間をかけて楽しみなができるかも知れない。この施設をどう活用していくかはこれからの課題だが、面白い事に、今月末シンガポールの宣教師一家がこちらに訪ねて來る予定になっている。昨年末頃、突然訪ねて来て、この北秋田市で宣教活動するので、協力してくれないかとの申し出であったの、了解していたのだが、本当に今月30日にそちらに行く、との連絡があり、ある意味期待しているところだ。これからどういう協力できるか、よくよく話し合って決めていきたい。5人家族、50代くらいのご夫婦と娘さんが三人、あちらの方は黒人系なのかな。16歳だと言う娘さんだけ、褐色肌で、黒人っぽい、この子が一番日本語が上手で、他は皆、片言日本語、利発そうな娘さんで、この子が一番期待できそうだ。・・・・・・

 

5月25日(土):教会施設の拡張

概ね終了に近づいている。今日夕方までにコンクリートの打設が出来れば、あとは片付けのみ、1日ないし二日くらいで、工事は終わるだろう。しかし、これからが本番なのだ。建物の外装、内装、等々、これは自分でやらなければならない、冬までかけてのんびりやっていくか・・・・・

 

5月18日(土):おやすみ


しばらく、ブログの更新をおやすみします。現在、教会の拡張工事の最中で、今月いっぱいかかりそうです。よって、一週間ほど、お休みさせてさせてください。いつもお読みくださりありがとうございます。元気にお過ごしください。在主。

 

5月10日(金):老人と三人の若者

以前、ラ・フォンテーヌの寓話、老人と三人の若者と言う、寓話を載せた事がある。一人の老人が自分の土地に若木を植えた話である。三人の若者がやって来て、その老人を揶揄した。「爺さん、もうろくしたんじゃない?。その歳になって木を植えるなんて、その木の果実が実を結ぶまで、何年かかると思っているんですか、そんなことは私たち若者に任せておいて、年寄りは過去の日々の懺悔でもして暮らしなさい、木を植えるなんぞ私たち若者に任せておきなさい」などと、言った。老人は言った。「そんなこともあるまい、運命の女神は残酷だ、誰がこの木の果実を口にできるか、知るものはいない」。老人の言葉は正しかった。若者の一人は、アメリカへわたる途中に船から落ちて死んだ。もう一人は、柿の木から落ちて死に、残る一人は、戦争で流れ弾に当たって死んだ。老人は三人の墓の前で言った。「前に言った通りだろう、運命の女神は、気まぐれなのだと・・・・」。とまぁ、こんな風の寓話だった。・・・・・・・

さて、この老人も先日、隣の敷地に三本の桜の木を植えた。植えながらこの、寓話を思い出しながら、一人、ほくそ笑んでいる。さて、この桜の木が、満開になって私を楽しませてくれるのは何年後だろうかと。昔、父が家の後ろに桜を植えていた。それが、30年も経つと、毎年、奥の座敷から花見ができた。確かに見事な桜だった。その桜も、10年ほど前、病気になって切り倒してしまったが、懐かしい父の思い出の桜であった。今度は自分が植える番だと思い、今回、そうしたのだが、どこまで見られるかわからない。後に続く者たちがいれば、20年後くらいに、「前に住んでた爺さんが植えた桜が満開だよ。」と若者や、孫たちが、思い出してくれるだろうかな?・・・・・

 

5月3日(金):切羽  

60年ほど前、私が高校生の頃だった。義兄が鉱山に務めていて、坑内を見せてくれた。今の時代なら規制が厳しくて、高校生が坑内に入るなんて考えられなかった事だったが、何事も緩やかな時代であったように思う。その時、あいつがそうだと言われている男だと教えられた。

食う一等(勲一等)  飲む大臣(農務大臣)  木村だんじゃく(男爵)

註:だんじゃく(この地方の方言で、横柄、横着者を意味する)。その木村男爵の面体ををしかと見届けなかったが普通の男であったように記憶している。今の時代皆人間が小粒になったのか、かくも立派な尊称を持ち、揶揄される人も少なくなった。それにつけても、木村と言う男は、坑道の切羽で働く男たちの面目躍如たるものがある。

切羽。切端とも書くが、坑内の最先端で鉱石を掘削するところである。ヤマの男たちの戦場、いくさ場である。その頃は日本各地の鉱山で、よく落盤事故があり、幾人もの鉱夫たちが命を落とした。いわゆる、命がけの仕事でもあった。高校生の自分には、そんな過酷な現場を見ることが出来たのは、衝撃的であった。・・・最近の話だが、相撲の横綱審議委員に、古舘某と言う女性の人がいる、作家で、秋田の出身なのだが、この人が、「女性にも、土俵にあげろ」と言って、大人たちを困惑させた。要するに、優勝の授与式に、女性が立ち合ってもいいのではないかということらしいが、相撲協会が困惑したのも当然である。土俵というものが神聖なものであるかどうか、判断しかねるが、女性がそこに入っていいか判断の別れるところである。そこは、男たちのいくさばであり、あの、高校生の時に見た、切羽同様、過酷な男たちにいくさ場である。感覚的に女性が立ち入ることの出来ない場所であるように、私は感じていた。・・・・・昔、商社勤めをしていた頃、東北自動車道のトンネル工事に関わった事がある。現場との打ち合わせのため、切羽まで行った。そこはやはり女人禁制であった。だが、その昔、女人禁制の切羽に、女性たちがいたことがある。キリシタンである。九州地方からであろうか、はたまた、気まぐれな伊達政宗の犠牲になった者たちなのか逃げのびて、逃げ延びて、尾去沢銅山にたどりついた。モーセも逃れの町をつくった。鉱山はどこでも、不文律として、治外法権である。ひとたびそこに匿われると、何人たりとも、誰も、手出しは出来ない。迫害を逃れた切支丹たちは、キリシタンの夫婦は銅山へ逃げ込んだ。坑内の奥底で、わずかな燈心が消えればそこは、漆黒の闇である。その坑道に十字架を刻んだ。自分たちの骨身も刻んで生きた。あの、地獄の底のような切羽に、主イエスの恩寵があったのか!!!。