イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

5月23日(土):「真面目」であることの本質

《偉大な人物に共通の特徴は「純情」で「底抜けの純真さ」》

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7・8年前、名古屋で見かけた運送会社の車に、一尺幅の長いタスキをかけて走っているトラックがあった。それには、何百という「まじめ」という三文字が印刷されていた。まじめ・まじめ・まじめ・・・・・・・・・

私は、この会社の経営理念なのか、運行管理者の意図なのか図りかねたが、ぞっとするほどの怖さを感じたことがある。・・

私にとっては、まじめは、不真面目でない、ふざけていない、ということにおいてのみ意味があり、「真面目であること」には何の価値も見出していない。むしろ、「真面目であること」はしばしば自己弁護に陥り、自己義認の傾向に傾く。・・・・

当然ながら、聖書的意味を持たない。「聖霊の実」の中に残念ながら、真面目という言葉は含まれていない。(Ⅰコリ13)

不思議なことに、人は真面目であればあるほど「的外れ」に

なりやすい。・・・・・・

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岸学長は、スーツ姿にスニーカーを履いてお出かけになるらしい。中野国際学長は、講義にに熱が入り、跳んだり、はねたり、(?)である。ちえ子と二人で今度何回、跳ねるか数えてみようと話し合っている。・・・・今流行の竜馬さんは、袴姿に革靴を履き懐には拳銃をしのばせていたのは、有名な話である。竜馬は,北辰一刀流の使い手である。しかし、「剣」の時代でなければ、さっさと切り替え、革靴が動きやすければ履く。そんな物事にこだわらない、竜馬の発想が好きだ。・・・

JTJ神学校も、そんな常識の枠を超えた神学校であると思っている。そうした、学び舎で学べて事は幸いであった。

 ☆しかし、私にとって神の近くにいることが幸いなのです☆

この稿は2010年 小冊子イミタチオ・クリステイに掲載。

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