イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

5月24日(日):史記

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司馬 遷という、イエス様の時代よりおおよそ100年くらい前の中国の歴史家が著した歴史書である。かなり膨大な書物で、貧乏学生には買い求める事はできず、図書館で借りて読んだ。・・・・・・

日本に司馬遼太郎という、「司馬 遷」より少し小粒ながら素晴らしい作家がいた。先年亡くなられたが、私は先生のファンで作品を読ませていただいた。その司馬 遼太郎氏もどこかで、「史記」について書いておられた。・・・・・・・・

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紀元前99年、漢の将軍李陵が匈奴と戦って敗れ、捕虜になる

という事件が起きた。時の皇帝(武帝)は激怒し、まわりの者は皆、将軍李陵の家族を皆殺しにするよう進言した。(かつての日本軍のように)「生きて虜囚の辱めを受けず」ということなのである。しかし、司馬 遷一人だけ将軍李陵の武勇を称え

(たたえ)て弁護し、節を曲げなかった。この事が武帝の逆鱗

げきりん)にふれ、「宮刑」に処された。・・・・・・・・

数年の後、出獄し中書令という官職に復帰した。元々史家の家柄で、父からの遺言として、古代からの歴史書を著わすように命じられていたのであるが、男子にとって、死ぬよりも辛い恥辱の刑に処せられた司馬 遷は、復帰後その精神的打撃にもかかわらず、父の遺言を守り、著述にとりかかった。こうして、

史記」130巻を完成させた。人の持つ情念というか、熱情というものの凄さを教えられる故事である。・・・・・・・

 

司馬 遼太郎は戦争中、戦車隊にいたという。先日、テレビで偶然シベリヤに放置された旧日本軍の戦車の残骸を見た。まるで、「おもちゃ」のように貧弱な戦車であった。アメリカ軍の

Mなんとかという戦車に比べたら、ダンプカーと、軽トラックほどの違いがある。まるで走る棺桶みたいな戦車で戦えと言われた日本の戦車部隊と、司馬 遼太郎は、匈奴と戦い敗れた将軍李陵を重ね合わせてみていたのであろうか。・・・・・・

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私たちが前の教会を辞するとき、一人の姉妹が祈りを掲げてくれた。・・・《三浦兄姉の新しい歩みが主にあって祝福されますように・・・そして、私の病気の進行がゆっくりと進み、又、希望をもって焦らず生きていけますように》。私たちは正式に、教会のしきたりに従って、脱会したが、快く思わぬ人々もいた。そうした中で、私たちの為に祈りを掲げることは多分、勇気のいる事だったであろう。人づてにこのこと聞いた。姉妹は、パーキンソン病を患っている。不治の病である。

「私の病気がゆっくりと進み・・・・」と祈らざるを得ないところにかなしみの深さがある。このことを伝えてくれた友は、「教会から睨まれるので私には、出来なかった」、と告白して帰った。・・・・・

註:宮刑(男子は生殖機能を取り去られる刑罰)

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礼拝後、スマホで柳さんがインターネット礼拝を、検索して見せてくれた。まぁ、まぁ、沢山あるね。驚いた。礼拝もここまでシンポしたか、それにしても、楽でいいな。我が教会も講壇の上にパソコンを載せてやってみようか?。・・・・・・

高倉 健ではないが「あっしは、古い人間で・・・」。

エスのお顔が渋みを帯びて感じてくるように、思える、しかし、

まぁ、いいか。人それぞれの道を歩むべし、裁きは神にあり。

『力を尽くして狭き門から入れ、』いたずらにむつかしい道を

歩む必要もないが、安易な道には、いろいろと落とし穴がある、道は緩やかなカーブを描く、どこで踏みとどまるか・・・

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