イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

6月2日(火):ヨ・ブ・記

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聖書の中であまり関わりたくないものが三つある。一つは、黙示文書、二つ目は「エリ、エリ、レマ サバクタニ」そして三つめがヨブ記である。自分の中にはこの書を軽々に語ることは出来ないと感じているからである。ヨブ記を読んで深い慰めを覚えたという人も知っている。そんな人の生涯をみると、私など想像も出来ない苦難、苦悩の中を通されている。・・・・・

誰であったか忘れた、多分作家の方だとおもう。いつかイエス様の伝記など書きたいが、今はだめだ、自分がもっと霊的にきよめられていなければ、とてもイエス様の伝記など書けないのだ。と言われていた。なるほど、そういうものかと思った。

今は、「鏡に映してみるようにおぼろげに」しかみることができない、ヨブもその他の者も、はめ絵の断片を組み合わせようと懸命であったが、断片の全部を手にしていなかった。結局のところ、人知をもってしては、苦悩という複雑な問題を、矛盾のない一定の型にはめ込むことは出来ない、ということを示す

雄弁な解説書である。・・・・・・・・・

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ヨブの友人たちの「正統神学」がヨブを納得させたであろうか。むしろ、沈黙が弁論よりも多くの慰めを与えているのをみる。(2章13節 13章5節)。この書における序曲と終曲

(散文で記されている部分)以外の三十数章は、その友人たちとの「弁論ごっこ」は、果てしもない徒労であるように思えてくる。・・・・・・・

主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。・・・あなたは

勇士のように腰に帯を締めよ。天の沈黙がついに破られて、主はヨブに語られた。・・・あなたは勇士であるから、勇士のように腰に帯を締めよ。主のヨブを見られる御目はこのような

ものであった。(このお言葉は、母親の幼子に対する口づけのように優しい)・・・・しかし、主のお言葉はヨブの一つ一つの疑問には答えてはおられない。ただ、ヨブの心の傷を癒し、静かな服従の思いをヨブの心に注ぎこまれた。我々にとって、苦難や苦悩の理屈を知ることが大切なのではない。大切なのは、苦難の中にあっても贖ってくれる方の臨在である。

「私を贖う方は生きておられる」(ヨブ19:25)とヨブは友人たちに訴えた・・・・・・

主は、ご自身を示された。ヨブにとってこれ以上何が必要であろうか。42章6節~。それで、ヨブは自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めにいたる。・・・・これまで、義人と言われるヨブの信仰と行いも、ただの、伝聞に過ぎなかった。ヨブのうちに「神」が実在となったとき、「義人ヨブ」は消え、真の礼拝者、信仰者、悔い改めた神への「服従者」へと変えられていったのであろう。・・・・・

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