サウロの一行が、道を進んで行って、ダマスコの近くまできたとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は倒れた。
サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか
主よ。あなたはどなたですか
わたしは、あなたが迫害しているイエスである
同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から立ち上がった
が、目は開いても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いてダマスコへ連れていった。(使徒の働き9章)・・・
サウロ、(ローマ名パウロ)もまた復活のイエス様にお会いした一人である。しかし、つきつめてみると、その出会いの瞬間
はたったこれだけである。イエス様はただご自分のお名前を名のっただけである。『わたしはナザレのイエスである』これがパウロにとって、全てであった。この後、御霊に導かれたであろう。幻で示されたこともあろう。先輩信徒から教えを受けたことでもあろう。しかし、パウロの信仰の原点は常にこのイエスの一言に尽きる。
・・・わたしは、ナザレのイエスである・・・
ダマスコ途上において、パウロの耳に、響いた主のお声を、彼は生涯忘れはしなかったであろう。それこそが、キリストに連なる者であり、内なるキリストをいただく者であるようにおもう。
・・・・・・誰であれ・・・・・・
その心のうちに、イエスのみ声を響かせていないものは、
・・・キリスト者とは言わない。・・・