イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月2日(木):そういう者に私はなりたい

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宮沢賢治に関して長年合点のいかないことがあった。それは、最晩年書かれた詩「雨にもまけず」の終わりに記されている「そういう者になりたい」というくだりである。私の読んだ賢治の本には、彼は仏教徒浄土真宗門徒)であると書かれていた。しかしながら、この「そういう者になりたい」というそういう者とは、イエスの姿と重なってしまうのである。お釈迦様も偉いお人だったかもしれないが、そこにはどうしようもない、埋められない相違を感じていた。これが長年の悩みの種であった。・・・・・・

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最近、事は簡単に解決した。JTJの神学校で岸学長が講義のなかで、この詩にはクリスチャンのモデルがいたのだと、教えてくれた。調べてみると、その実在したモデルとは「斎藤宗次郎」

というお人らしい。・・・・・・・

彼の、信仰と、人となりはネットで調べた方が詳しい。ここではあえて書かない。ただひとつだけ、書いておきたいことがある。彼は内村鑑三の弟子であったが、内村が臨終の間際、隣の襖越しの部屋に、ただ一人控えていたのが、斎藤宗次郎であった。内村は、いい意味でも、そうでない意味でも、「くせ」のある人だったようである。晩年は、ほとんどの弟子たちは、彼から離れていった。宗次郎ただ一人、死の間際に控えていた。

それが、斎藤宗次郎という、人物である。人が最も孤独な時に寄り添っていられる、それが神の愛に似ている。

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註:この稿は2012年、イミタチに掲載したものに、多少書き直し載せました。

追記:2021年2月17日。この稿を投稿するにあたり、この10年ほどに、斎藤宗次郎の履歴故事が、書き換えられており。どうしても付け加えなければならないことがある。それは、花巻で耶蘇、耶蘇と迫害を受けていた時、彼の娘さんが、悪童に腹を蹴られ、それがもとで死んでいることである。この事件がすっぽりと抜け落ちている。父親にとって娘の死がどれほどの悲しい出来事であったか察するにあまりある。この事件は、斎藤宗次郎を語る時、けして忘れてはならない事なのだと思う。結局この原稿はおよそ10年の間に、三度書き直してしまった。

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