イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月4日(土):厩戸皇子 「うまやどのおうじ」

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アジアの西の端、日の没するところエルサレムの寒村ベツレヘムに、イエスがお生まれになってから600年、同じアジアの東、日の出るところ大和の国に一人の皇子がお生まれになった。厩戸豊聴皇子(うまやどとよとみみのおうじ)である。

父は用明天皇、母は間人皇后である。太子の「厩戸」という名の由来であるが、間人皇后が厩の戸に当たって、たちまち産気づいたという伝説はあるが、その昔、西の国に馬小屋にお生まれになった「聖徳」の方がおられるという伝聞が、中国から渡来した仏僧によって朝廷にもたらされていたことも事実らしい。

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        ・・・騎馬の太子・・・

飛鳥の道で、いつも、私が思い描く厩戸のイメージは、白い埃を舞い上がらせて疾走する馬上の太子であった。私の眼前には、厩戸の凛々しい、精悍な、陽に焼けた相貌があった。

   (斑鳩の白い道の上に  上原 和 著)

聖徳太子が「聖徳」の人と言われるのは、後年のことである。

厩戸は既に十代の半ばにして権力争いの渦中にいた。曽我馬子と共に物部、守屋の勢力と死闘を繰り返し、危ういところで厩戸のシャーマン的能力によって、勝利し、物部、守屋の勢力を滅ぼした。・・・ところが、用明天皇亡きあと、傀儡天皇でもあった崇峻天皇があろうことか、クーデターによって暗殺された。この事件に、厩戸が関与したとは断定できないが、その後の政権は推古天皇(女帝)、厩戸、馬子のトリオによって成立した。・・・・・

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「柿食えば 鐘が鳴るなる 法隆寺」。などと呑気な句を詠んでる場合ではない。(作者よ赦せ)。厩戸が建立した法隆寺は、物部、守屋、崇峻天皇暗殺、という血塗られた太子の鎮魂、懺悔寺としての意味合いが強いと言われている。仏法に帰依していた太子といえども己が(おのが)手にかけた者たち、守屋、物部の兵たちの怨霊におののいていたのであろうか。・・・・太子はまた四天王寺をも建立している。もとよりそこには大仏が鎮座している。

しかし、その大仏といえども、大和川のほとりに、屍を晒(さらした)したあの守屋、物部の兵たちの霊を癒すことが出来たのか。そして、厩戸の魂の平安は得られたのか。

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   ・・・厩度の制定した憲法十七条・・・

第一条・・・和を以て貴しと為す。

上原 和氏は、この一条は厩戸の、血の噴き出すような壮絶な悔恨の思いがこめられているように思われる。と述べている。

一条の後に、厩度は書いている、「人はみな、人間である以上誰しも、党(たむら)があり、しかも達(さとり)しえない者が多いので争いがある。」これは、厩戸の原罪意識のように思われる。厩戸は、生母間人太后の亡きあと翌月に病につき、一月後に崩じた。妃も業病に伏した夫の看病からか前日に亡くなった。こうして、倖薄き50年の生涯を閉じた。

厩戸の上宮家にさらなる不幸が続くが、長くなった、明日にしよう。

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