イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月5日(日):上宮家の悲劇

   

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   ・・・剣を取るものは、剣で滅ぶ・・・

和を以て貴しと為す。というこの一条の目指すところのものは、儒教は元より仏法の教えをはるかにこえるものである。そのことは、やがて明らかになっていく。・・・・・

厩戸、生母間人太后が相次いで崩じたことは、前に記した。斑鳩の上宮家にさらなる不幸が続く。聖徳太子の嫡男、山背大兄王が権力争いに巻き込まれ、一族二十余名が非業の死をとげるのである。上宮家に味方する者たちは、挙兵を勧めたが、厩戸の子らは、そうすれば、敵に勝てることは分っている。しかし、戦になれば、父の定めたこの一条に反し、百姓に難儀をあたえ、他にも害を及ぼす。それ故、入鹿(敵将)に我が一身を与える。一時、生駒山に身を潜めていた二十余名従容として山背の後に続き、法隆寺に入り、絞き(わななき)首をくくりて果てた。厩戸蒙去後わずか二十年後(643年)のことであった。こうして、子たちは従容として《一条》に殉じていったのである。・・・

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上原 和氏は『それは、あたかもゴルゴタの丘へ十字架を担い、よろめきながら行くその人のように』と記している。・・・・・・

時代がくだって二百年、嵯峨天皇は818年、律を改正し我が国において、死刑を廃止した。大和の国、日本から死刑という

刑罰を無くしたのである。これが、驚くべきことに347年間続いた。世界の歴史において、1200年も前に、どこの国の王侯貴族のうち誰が、この制度を廃止しようと考えた者があろうか。刑罰を以て民の罪を防ぐよりももとに帰って、官にある者自らが善行礼譲をもって、民を徳化せねばならぬと定めた。

・・・・・・・・・厩戸の願いでもあった・・・・・・・・

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追記:万葉集にある聖徳太子の歌。

  《 世の中は 空しきものと 知る時し

           いよよ益々 悲しかりけり 》