イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月7日(火):復活の主は はじめに

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・・・復活の主は、はじめに誰にそのお姿を現されたか・・・

四つの福音書はすべて、マグダラのマリヤにそのお姿を現されたことを記録している。《さて、週の初めの日に朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自身を現わされた》マルコ(16;8)・・・・

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 「ところが、パウロは、コリント人の手紙(Ⅰ)15章5節において、復活の主が「ケパに現れ、それから12弟子に現れた」と書いている。マグダラのマリヤのことがすっぽり抜け落ちているのである。パウロの同労者であったルカでさえ、このことは知っていたのに、パウロは何故かマグダラのマリヤや女たちの事は伏せている。作家の曽野綾子さんが、このことについて書いてあるのを読んだことがある。「女性差別」だとまでは書いていなかったと思うが、パウロには、女性に対する、片寄った見方があると指摘していた。「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい」(Ⅰテモテ2;12)などと言われると、女流作家としては、文句の一つも言いたくなるのだろう。・・・・・・・

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それにしても、女性のかしましさは、ギリシャ・ローマの時代っから変わることなく男どもを悩ませてきたようだ。今年のサラリーマン川柳の優秀作にこういうのがあった。

    《我が家では 最強スクラム 妻・娘》

元野球監督、星野仙一、鬼監督と選手に怖れられていたが、彼が一番怖いのは、妻と娘だとどこかで、白状していた。

しかし、男、星野仙一といえども、妻娘の助けなしに、あの野球人としての功績はあり得なかったであろう。私も、ささやかながら、そう思うこともある。概して男どもは意気地なしである。主の十字架のおそばに、最後まで寄り添っていたのは女たちである。男どもは蜘蛛の子を散らす様に逃げ去っていたのだから。いずれにせよ、この問題は永遠に解けそうにない。

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