・・・・・わたしの目には あなたは 高価で 尊い・・・・
《イザヤ43章;4節》
随分昔に、牧師から誕生カードをいただいたことがあった。そこに記されていたのが、このみ言葉であった。役員をしていてもあまり「優秀」ではなかったので、イザヤ書にこんな聖句があったとは知らなかった。いずれにしても、誕生カードを頂いたのは嬉しかったが、み言葉自体にはあまりピンとこなかった。・・・・《主よ、私が何者だというので、これをかえりみられるのですか》たえずそういうおもいだけが強くさせられていた。
ところが、そのころ何年か、神学生ということもあって、沢山の先生方の書いたものや、説教を聞く機会に恵まれた。そんな中で、気付かされることは、昨今実に多くこのイザヤ書の言葉が語られているということである。ちょっと、大げさに言えば、キリスト教会、教界における《流行語大賞》のような観すらある。・・・・
このみ言葉は当然ながらイザヤにのみ語られたことではないだろう。神のみおもいは私たちに対してその通りであって、間違いのないメッセージであるのは言うまでもないことである。・・・・
私は、実に情けないことに、自尊心が強く、傲慢不遜な者である。しかしながら、生まれてこのかた一度たりとも自分が「高価で、尊い」と思ったり感じたことはない。それで、この有難いお言葉も私にはいまだに、ピンとこないのである。・・・・・・
今の時代、人は愛されているという安心感と癒しが必要なのだろうとおもう。牧師伝道者がいたずらにイザヤの言葉を多用しているわけではないだろう。裏を返せば不安な時代なのでもあるのかなと思ってしまう。・・・・・・
愛というものを、受ける側に立った場合ひどく貪欲になる。それは神からのものであろうと、人からのものであろうと変わりはない。主なる神は、「ねたむ神」と言われるほどの究極の愛を示されたが、人はけしてそれでは満足はしない。聖書のメッセージは
私たちは愛されているという事実を伝えているが、私たちに求められていることは、『愛されなさい』ではなく《愛しなさい》
である。この辺りを読み違え、聞き違えると的外れになる。・・
サタンと贋金作りが、作り損なった金貨には「愛されている」という刻印しかない。裏面はのっぺらぼーなのである。天国銀行の金貨の裏面には《愛しなさい》と刻印されている。このように裏表に刻印のない金貨は、神の国では通用しない・・・・・・