イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月19日(日):朝の祈り

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・・・榎本保朗師著 旧約聖書 一日一章 詩篇5章3節・・・

   「主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます」

7節に「聖なる宮にむかって」とあるが、ダビデの時代にはまだ神殿は建っていなかったので、これは後世の人がダビデをしのんでつくったものと見た方がよいとされている。3節に朝ごとにとあるところから、これは朝の礼拝のときにうたわれた詩篇であろうと言われている。中国で活躍した宣教師ハドソン。テーラーは、「中国の太陽はわたしが祈っている姿を見ないで東の空に昇ったことはない」と言ってたそうである。どんなときにも彼は朝早く起きて祈られた。祈らずにおれなかった、そこに彼の中国におけるすばらしい霊的な働きの原動力があった。主イエスもしばしば朝早く起きて祈られた。一日のはじめである朝、神に心を向け、神に向かって口を開いていく、そこから始まる一日にまさる生活はない。・・・・・・

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朝の祈りのない人生は本当に力弱いものになってしまう。なぜなら」そういう生活には確とした規準がないからである。今日の人々の悲劇の大きな一因もそこにあるのではないか。お互いに一体何が本当に正しいのかその判断がつかなくなり、社会全体がまったく混沌とした状態におちいってしまっている。それだから教育勅語のようなものを求める人が出てきたりするのである。

民主主義もそうである。これはキリスト教からではなく、ギリシャから起こってきたものであるが、キリスト教とは大きなかかわりを持っている。なぜならば、本当に神に従っていくという世界、それが裏づけになっていない民主主義は、単なる多数決と混乱の民主主義におちいってしまうからである。・・・・・

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とにかく私たちにとって、朝の時を神の前に過ごすということは、自分の生き方をはっきりさせる点において非常に大事なことだと思う。何が神のみ旨であるかを知り、そして私の思いではなくて、みこころのままをなしたまえと神にゆだねて自分の生活を始めていく、そういう朝の祈りの連続が私たちの生活になっていかねばならない。思いついたときに神のみ言葉を聞いたり、また気の向いたときに聖書を読んだりということでは、その人の人生が本当に神のみ言葉によって導かれたり、また神のみ言葉に立っていくことにはならないのである。朝毎にみ言葉を聞き、そのみ言葉に従っていこうとする生活の中からこそ、おのずと本当の交わりが生まれてくるのだと思う。・・・・・

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われわれは、本当に信じて従っていこうと思えば思うほど、自分の不信に悩まされる。結局、神の前に砕かれて私は罪人のかしらですということを涙ながら語りえたときに、いっさいの人間的な隔たりが取り除かれ、そこで神の愛に対し不信なるにもかかわらず、愛されゆるされているお互いであることを知り、ゆるされた者同士の深い交わりが生まれてくるのである。・・・・・・

朝ごとのみ言葉の前に砕かれる者でありたい。

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 今朝、開いた一日一章がこの箇所であった。このところは、先生の信仰の最もよくあらわれているページだと思う。

「はじめに」に書かれているように、先生はブラジル宣教の旅の途上で召された。三浦綾子は、先生の健康を案じて、誰も先生の旅費を援助するなと回状を回した。それでも先生は旅費を工面し旅だったが、機上で病気が悪化し帰らぬ人となった。何が良かったか誰にも分からない。どこかで、先生は少しばかり命をのばしたところで、大したことでもないと書いておられた。・・・・