イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月24日(金):追体験的に聖書を読む

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学生時代キリスト教の学校だったので、「新約聖書の教科」は必修だった。一般教養課程なので、内容はそれほど高度ではない。以前このブログで新約学を茂泉教授から学んだ事を書いたと思うが、もう名前は忘れてしまったが別の先生から、「追体験的に聖書を読む」ことを教えられた。しかし、これがとんでもないことであった。目からウロコとはこんなことをいうのだろう。私は以来、全て聖書はこの手法で読んで来た。・・

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JTJ神学校の岸先生は、イエス様のお言葉をより深く理解しようとするならば、その前後関係をよく読むことを薦めておられる。具体的には、イエス様のなされたその事柄や、奇跡、出来事を「劇場化、ないしは脚本化」し

てしまうのである。聖書を読みながら、自分もその場に居合わせ、それを見た、聞いた一人として感じていくことである。(登場人物の一人としてそおっと心を添わせてみるのである)これを心がけて聖書を読んでいくとたまらなく楽しく、今まで見えていなかったものが見えてくる。そして、登場人物が実に生き生きと私たちに語りかけてくるはずである。・・

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遠藤周作が面白いことを書いている。自分の書いている小説の登場人物が勝手に、自己主張をし始めることがあるというのである。作家はそんなつもりで登場させたわけではないのに、「こう書いてくれ」と言い出すのだそうである。しかし、そうなれば、良い小説ができるという。・・・

本を読むとき、よく行間を読むようにと言われる。外国ではどうなのかよくわからない。しかし、我々はそんな指導を受けた記憶がある。それはその文章で書き表せないないもの、ひいては著者の真の狙いのようなことが、往々にして行間に隠されたいるものらしい。「文は人なり」ということもあるように、一字一句にとらわれることなく、行間に秘められた著者の人となりに迫っていく、そんな読み方は、著者の人となりを理解していくことになる。聖書を読む場合も同様である。書き手即ち神、イエスの人格に迫っていく、このことが一番大事なことのように思われる。

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今、21時38分、犬のまるが、この時間まで付き合ってくれている。今日は、朝と夕刻、散歩に連れ出し、朝と夕飯は好物のソーメンだったので、ご機嫌なのだろう。 こんな風にしてご主人の側にいる。

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