イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月26日(日):事の善悪を論じてはならない

f:id:dotadotayocchan:20200726165950j:plain
その年4月に、前の教会を去ることになった。母教会でもあり、高校生の時代から数えると50年になんなんとする歳月がある。

思い入れも、思い出も、恵みも、主にある兄弟姉妹も少なからずいる。進学や、就職で教会を離れたこともあったが、この教会は常に私の誇りであった。ルター派の教会で、信仰義認、聖書のみ、万人祭司、このプロテストのスピリットは、大事にしなけれならなかった。教会の牧師が代わると、離れていく信徒が出てくのは、日本の教会の奇妙な現象である。新任の牧師は、どうにかすると、よいこ、わるい子、ふつうの子に分けたがる。今となっては、私たちの寛容さが足りなかったのか、牧師が間違った方法を取ったのか、判別はできない。ただ、これで良かったのだと信じている。《あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです(Ⅰコリント11;19)・・・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200719174633j:plain

ヤコブがラバンのもとを無断で出た時、7日目に追いついたラバンに、神は言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」(創世記31章24節) ラバンの目論見は、ヤコブを撃ち殺し、娘たちを取り戻すことであったことは容易に想像出来る。そうした緊迫した中における、神の御介入であった

「非」はどちらにあるのか、そこで争い始めたら血で血を洗うことになる。ここで気づかされることは、主なる神は、ヤコブに御目を注がれておられたということである。私自身は、個人的にはヤコブという男は、なかなか、ずる賢くて好きではないのだが、

主は、ヤコブの内にある「純」な部分を見ておられたのだろう。

f:id:dotadotayocchan:20200612155706j:plain

今朝の礼拝のメッセージは、佐々木秀一師がして下さった。彼もまた以前の教会で「イジメ」にあっていたようだった。JTJの集会で三戸で会った。以来十余年のお付き合いをしている。毎月第4週に、説教をお願いしている。私も「御老体」になったので助かっている。今日は、もう一ついいことがあった。礼拝後みんな帰った後に、隣の教会の古いお友達が、同じ教会の信徒さんたちに、まもられながら、覚束ない足取りで、来てくれた。元ルーテルの信徒で、十代で結核になり、長い間、隔離病棟で過ごし、そこで信仰に入った。完治し礼拝に出られるようになった時、みんなが喜んで迎えたのを覚えている。よくぞ信仰を守り続けて来られたものだと、彼女を見る度不思議におもう。神がヤコブを護られたように彼女をも護っておられたのだろ。

f:id:dotadotayocchan:20200612100020j:plain