イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月1日(土):海軍主計大尉

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「海軍主計大尉小泉信吉」という本がある。小泉信三という人が書いた。本来、自家製の本として、300部だけつくられたものだが、著者の亡きあと、文芸春秋社が改めて出版し、話題の一冊となった。私の持っている本の奥付を見ると、S41・9・11

とある。印刷は41年9月10日第7刷になっている。・・・

小泉信三は、前天皇陛下の幼少時の教育を任されたお人であり、

慶應義塾の塾長も務められた。この本は、そのご子息「小泉信吉海軍主計大尉」の思い出を書いたものである。信吉は先の戦争で

わずか25歳で戦死した。その戦地から届いた信吉の手紙を中心にこの本は書かれている。そこに記された、親子の情愛の深さが

反響を呼んで「ベストセラー」的なものになってしまった。著者信三氏は、当初から自家製の家蔵本として、親戚縁者に配布するのが本位だったので、それこそ、草葉の陰で困惑しているのかも知れない。この本を買ったのは、二十歳前後の頃であったと思うが何故か、二十年程それこそ棚ざらしにになっていたし、何時読んだかも忘れた。この本を読んで、二つの事が心に残っている。

その一つは、陛下の養育係まで務めた信三氏が、一人息子の信吉を戦地にやらぬように、軍に働きかけることは容易いことであった。世間で権力のある人は皆そんな事をしている。親の七光りでどうにでもなることを、彼はしなかった。・・・・・・

(余談:ベトナム戦争で、その終結を迎えたのは、戦地に送られる若者が上流階級の子息にも、招集がかかる様になってきたからである。彼らはここいらで戦争を止めなければ、自分らの息子も戦地に行かされることを怖れ、終戦協定を進めた・・・との説もある)

主計局とは、会社では総務か経理に相当する。エリートの集団である。

信吉も慶應義塾卒の優秀な若者だったようだ。最初から中尉で任官した。しかし、その軍歴は短かかった。わずか25歳で、終わった。その息子の事を父はこう書き記している『信吉は文筆が好きだった。若し順当に私が先に死んだら、彼は必ず私のために何かを書いたであろう。それが反対になった。‥中略・・この一篇の文が、彼に対する私の小さな贈り物である』

昭和19年4月2日に最後の一行を書き終えた。丁度私が生まれた日で、はるか昔の、信三の悲しい日であった。

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信吉の戦死の知らせのあった夜、母は、「しんきち、しんきち・・・・」と隣の部屋で、息子の名を呼び続けていたという。

その暗闇から聞こえる悲痛な声を、小泉信三はじっと聞き続けていた。

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小泉信三は、役職柄さすがに洗礼は受けていなかったが、クリスチャン(聖公会)の家庭であった。

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今の時代、こういう人が、いなくなった気がする・・・・