イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月4日(火):ドノヴァーの碧い空

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   ・・・エミー・カーマイケルの祈りと生涯・・・

 神は、何か新しいことを始めようとなさる時、ご自分の御子

イエス・キリストのように、自らを低くし、むなしくして

死に至るまで忠実に従おうとする者を求められます。

そして、神は、今世紀初頭、南インドで宣教師として仕えた

ひとりの女性のうちに、それを見出されました。

 

エミー・カーマイケルは、ケズィック・コンベンションの

最初の海外宣教師です。

二十四歳で宣教の召しを受け、紆余曲折を経てインドに導かれ、

五十五年の間、一度も本国イギリスに戻ることなく、

難しいタミル語をマスターし、生涯独身で、

眠る間も惜しんで働き続けました。

そして、キリスト教信仰を告白することは、迫害、

時には死をさえ意味するヒンズー教カースト制度の社会の中で

ヒンズー教寺院にささげられ神娼とされていくこどもたちを、

身の危険を犯しながら救済する働きに取り組んだのでした。

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精力的な活動ののちに待っていたのは、

二十年近くにわたる、ほとんど寝たきりの生活でした。

しかし、その病の中で多くの本や詩が生まれ、

彼女の霊的な影響は世界中に広まっていきました。

 

なぜ、私たちと同じ生身の人間である彼女の働きが、

生涯が、祈りが、かくも崇高で、実り豊かなのでしょう。

彼女の残した膨大な資料・・・詩集、祈り、手紙、自伝、

ドノヴァー・フェローシップの働きについての本、

デボーションの本など・・・を繰り返し読んでいくうちに、

鮮明に浮かんできた一つのことがあります。

彼女にとって、人生の中で起こってくる出来事は、

自分に死ぬ機会(A CHANCE TO DIE)だったのではないかと

  つまり、自分の弱さ、頑固さ、思い、不信仰に死に、

キリストが自分のうちにに生きて、支配しておられることを

確信し、体験する機会・・・

キリストが人類のためにかけられた十字架こそが、

エミーの古き人も共につけられた十字架こそが、

彼女の慕ってやまないものだったと思うのです。

 

今、「ドノヴァーの碧い空」のめくるお一人一人に、

エミー・マイケルの一生は何を問い、

そして、どのような光を投げかけてくれるでしょうか。

                (文:内田 みずえ)

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エミー・マイケルについては、内田みずえさんの書かれた文章にそのあらましの事が記されている。

以前、この本を読んで、私は躓きかけた。長い命がけの宣教活動の末、最後の二十年近く、病床にあり、寝たきりの生活だったことに転びそうになった。「主よ、なぜですか」と誰でも問いかけたくなる。彼女自身もそんな思いもあった事だろう。しかしその問いを、打ち消した。聖霊が彼女にそれが罪であることを悟らせたのであろう。・・・・

その頃の手紙にこう記してある「涙は罪ではありません。イエスさまは泣かれました。しかし、嘆き続けるのは罪です」

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