・・・J・アンダーソン編 有賀 寿訳・・・
人が信仰にめざめ、その信仰に生きようとするとき、ほとんど例外なく身につけるのが、本書のいう「静思の時」である。
もともとわたしたちは、神を信じていなかったし、求めてもいなかった。神の方でわたしたちに目をつけ、導いて、信じざるを得なくされたのだった。・・・・・・
『さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた』マルコの福音書1章35節
「静思の時とは何か」と言う問いに答えようとすれば、その土台となる大いなる事実に、気付かなければならない。神は、わたしたちとの親交を願っておられる、というその「奇跡」である。
ダビデは「主よ、朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに
あなたのために備えをし、見張りをいたします」(詩5;3)
ダニエルについてはこう記されている「彼は、いつものように、
日に三度、ひざまづき、彼の神の前に祈り、感謝した」ダニエル書6章10節)聖書はこのような例を後から後から見せてくれる。明らかに、神が最もよくおもちいになるのは、多大の時間を祈りを通して神とのみ過ごそうとする、そのような人々なのである。イエスの上に聖霊が下ってきたのも、彼が祈っておられたさなかのことであった。十二使徒を選ばれたのも、夜通し祈って過ごされた翌朝のことである。イエスの最大の祈りは、ゲッセマネの祈りであることは、皆知っている。・・・・・・・・
『あなたは、祈るときは自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい』
(マタイの福音書6章6節)
「静思の時」の実行するための、いろいろな事柄は、その人なりの条件がある。それぞれが、自ら自分に適した方策を考えてもよいと思う。奇跡と思える神の問いかけに、どのようにお応えしていくか、ということについての、キリスト者としての、熱情が求められているのではないだろうか。
私は、毎朝4時~5時まで、祈りの時を持っている。それは苦にならない。むしろ喜びの方が大きい。引退同然の境遇にあるから
出来ることかもしれない。仕事を持つ若い人たちは、自分の出来る時間に合わせないと、長続きしないかもしれない。無理のないように、楽しくが秘訣のようだ。・・・・・