イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月11日(火):ルズはベテルである

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今日のみことば、ベテルは神の家。(ヨシュア記18章13節)榎本保朗師の一日一章。

聖書の中にルズという地名が時々出てくる。私たちがこの地名を聞いた時思い出すのは、あのヤコブ物語に出てくる場面である。自らの不真実の故に兄エサウのうらみを受け、父母のもとを離れ一人旅するヤコブにとって、ルズの野宿はまことに寂寞たるものであったに違いない。神は「人は一人でいるのはよくない」と言って、ふさわしい助けてを創造されたと記されているが、人間にとって、一人ぼっちであることを知らされるときほど耐えられないときはない。世の煩わしさのゆえに、時には一人で過ごしてみたいということもあるが、人はいつまでも一人でいることは出来ない。・・・十年ほど前のことであった。ロンドンで一人の老人が墓場で自殺したことがあった。この人は金持ちで何不自由なく生活していたそうだが、死後発見された日記には、「今日もだれも声をかけてくれなかった」という言葉が毎日記されていたとのことであった。だれからも声をかけられない、という寂しさが、

このひとを自殺に追いやったのである。生きる意欲をなくさせたのである。・・・・

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しかし、このことは老人だけに限られたことではない。人間誰もが友を求め、相手を必要とするものである。

「人間」とは「人の間に生きる者」という意味である。と説いた

人がいたが、まさにそのとおりである。しかし、私は多くの人の間にいてその孤独をいやというほど味わうことがある。みんなが楽しそうにしているとかえって自分だけが惨めな存在におもわれて、ひとりぼっちの寂しさをかみしめることがある。このことはわたしだけではないのではないだろうか。その意味で、ルズは

決して一定の場所ではなく、だれかのおかれている場所でもない。実は、みんなルズに生きているのである。ある者はそれに気づき、ある者はそれに気づかずに生きているだけである。・・・

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ヤコブはこの寂しいルズにおいて神の語りかけを聞いた。彼を愛し、彼と共にいたもう神の約束の言葉を聞いたのである。彼は

朝早く起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし

油を注いで、その所の名をベテルと名付けた。(創世記28;)

ベテルとは、神の家であり、これが天の門であるということを知らされた彼が喜びにあふれてこの名をつけたのである。ルズはベテルである、というヨシュア記の筆者は記している。彼はあのヤコブの物語を思い浮かべながらこの言葉を書いたに違いない。

我らもまた、今日の時代、人間喪失などと言われる時代に向かって、「ルズはベテルである」と宣べ伝えるべきである。この声こそが今日の人々が待ち望んでいるのではないだろうか・・・

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