イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月21日(金):しかし主よ 詩篇102篇

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この詩篇は、表題にも書かれているように聖書が示す祈りを教えてくれているのではないかと思う。11節まで読むと、この詩人は滅びの一歩手前のような、まったく生気もなく希望もない、

打ちのめされた状態におかれていたことがわかる。けれどもそういう中にあって、なお彼は「しかし主よ、あなたはとこしえにみくらに座し、そのみ名はよろず世に及びます」と述べている。今の私がどのような状態であろうとも、それは決してあなたとかかわりのないことではない。あなたのご支配の外にあることではない。あなたが良しとされるならば、今ここであなたによって立ち上がることが出来るのだという確信を与えられたのである。・・

祈りというものは一言で言うならば「しかし」ということだと思う。人生には本当に苦しいこと、悲しいこと、いやなことが次々と起こってくる。だが単にそれが除かれることを願うのは祈りではなくただの欲望に過ぎない。だからと言ってそれを黙ってこらえる必要はない。苦しいことは苦しい、悲しいことは悲しい、いやなことはいやだと言い、しかし、それらを含めていっさいを支配したもう神の前には、その苦しみも、悲しみも、悩みも問題でではないことを知り、それらいっさいのものを神のもとに持ち来ることである。・・・・

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この「しかし」ということが言えるかどうかが、福音信仰に基づく祈りであるかどうかの分かれ目だと私は思う。・・・・

この詩人はなにも、自分がなんとかしようと思っているのではない。神の力というものに目を注いでいたのである。神の全能、神の恵み、そういうものに目を注いだときに、

彼の人生はちょうど零時の時のようになったのである。零時すなわち、真夜中、それは暗さの絶頂であると同時に、夜が明け始める時である。その日の終わりであると同時に次の日の始まりである。私たちの人生、特に信仰はそういうものではないかと思う。

「しかし」と祈る時、朝に向かうわざが始まっているわけである。・・・・大事なことは、私たちの今というときに、「しかし」というものがあるということで、それが神の存在を信じるということだと思う。神があるとかないとかいくら議論してもなんにもならない。本当にどんな状態にあっても「しかし主よ」と言えること、そしてそれが私たちの生命の力になること、それが神があるということだとおもう。そこから明るい世界が始まるのである。この詩人も「しかし主よ」と言ったそのあとに、それまでの暗さとはうって変わった明るさを見出している。(榎本保朗師)

 

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ここ何日か気の重い日が続いている。夕食後いつものように書斎に入った、机の上には、毎朝読む「一日一章」が置かれている。

朝以外は手に取ることはないのだが、何故か手に取って、パラリと開いたら、詩篇102篇だった。・・・・・・・

ある人から祈りの要請があった。名前は明かさない。「悪性リンパ腫」だという。血液の癌で、病名は違うが先日まで、来ていた姪っ子の母も、血液の癌であった。私の兄も癌になり同じく四期だった。放射線治療や、抗がん剤を服用したが、お医者さんがサジを投げた。葬式の準備までしてしていたのだが、ホスピスに移されてから、三か月ばかりで癌が消えてしまった。私はこのために熱心に祈ったわけではない。85歳まで生きればそれでいいじゃないかと。割と冷たい弟であったが、どうやら主のお考えは違っていたようだ。・・・・「しかし主よ、かの人はまだ若い、お子さんもいる。」。祈りの要請に応えねばなるまい・・・・・

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どうかこのブログをお読みの皆様にも、祈ってほしい!!!