小学の高学年の頃、「ビルマの竪琴」という本を読んだことがある。児童向けに書かれた本で、竹山道雄という人が執筆したただ一冊の本である。
幼い頃にふれ、感動した本は生涯忘れることはない。人間の頭脳の構造は
誰であってもほとんど変わらない。ただそれぞれがどれほど強くそのことを心に焼き付けるかによって変わるだけである。ビルマの竪琴は私にとってそんな一冊であったのかもしれない。主人公の、水島上等兵という名前を今に至るまで覚えているのは、そういうことなのかもしれない。・・・
1946年~1947年にかけて童謡雑誌「赤とんぼ」に掲載されその後出版された
☆☆☆あらすじ☆☆☆
大東亜戦争が終わりを迎えた頃、ビルマ(現在の国名はミャンマー)に駐屯していた日本軍の小隊が、英仏軍に包囲された。夜になって、小隊は敵を油断させるために、「埴生の宿」を合唱した。それからいよいよ突入しようとした時、包囲していた英仏軍もまた「埴生の宿」を合唱し始めた。
(この曲は、イギリス民謡であった)。両軍は戦わずして相まみえ、そこで小隊は既に日本は終戦を迎えていたことを知らされた。小隊は捕虜となり、収容所に入れられたが、その地方にまだ降伏をしない部隊があった。
彼ら同胞を助けたい小隊長は、イギリス軍と交渉し、竪琴の名手で知られていた水島上等兵を向かわせることになった。水島は単身出かけていったが、その後、杳(よう)として彼の姿は消えた。小隊の者たちは鉄条網の中で、彼の安否を気遣っていた。それからしばらくのときがたって、彼らの前に水島に似た僧侶が現れた。彼は肩に青いインコを留まらせていた。隊員たちは思わずその僧を呼び止めたが、逃げるように歩み去った。・・・・
大体の事情を察した小隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受けた。そのインコは例の僧が肩に載せていたインコの弟にあたる鳥だった。隊員たちはそのインコに「オーイ・ミズシマ・イッショニ・ニホンヘ・カエロウ」と日本語を覚えさせた。数日後、小隊が森で、
合唱していると、涅槃仏の胎内から、竪琴の音が聞えてきた。・・・・・
しかし、彼の姿はない。やがて小隊は帰国することになった。隊長は、日本語を覚えこませたインコを、渡してくれるように、かの物売りの老婆に頼んだ。いよいよ出発の前日、青年僧が姿を現した。そして彼らは互いに
「埴生の宿」を合唱し、水島上等兵は竪琴をかき鳴らした。・・・・・・
翌日、帰途に就く小隊に、一羽のインコと封書が届いた。そこには
降伏の説得に向かう道々で、目にするのは無数の朽ち果てた、日本兵の遺体の山だった。衝撃を受け、この英霊を葬らずに自分だけ帰国すのは、申し訳なくこの地に留まろうと決心し、僧侶となった。・・・・・・・・・
水島からの手紙は、祖国への想い、懐かしい戦友たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。手紙を読んで、むせび泣く戦友たちの上で、インコは『アア、ヤッパリ ジブンハ カエル ワケニハ イカナイ』と。叫ぶのだった。・・・・・・
埴生の宿
♫埴生の宿も わが宿
玉の装い うらやまじ
♫のどかなりや 春の空
花はあるじ 鳥は友
♫おお わが宿よ
たのしとも たのしとも
♫書(ふみ)読む窓も わが窓
るりの床も うらやまじ
♫きよらなりや 秋の夜半(よわ)
♫おおわが窓よ
たのしとも たのしとも
註:埴生の宿;みすぼらしい小屋、家。
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この物語にはモデルがあるが、当人は僧侶となって黙して語らない。