イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月14日(月):悲しむ人

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『悲しむ者は幸いです。その人は慰められるから』マタイの福音書5章4節

イエス・キリストの宣教の最初の言葉はこうであった。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」であった。そして、イエスの語られたあらゆる言葉は、究極的にはこの言葉に帰ってくる。書物に例えれば、表紙に記され言葉、あるいは本の題名みたいなものである。・・・・・・

今日の主題については、7月3日のこのブログの記事とよく似ている。

「悲しみは笑いにまさる」顔に憂いを持つことによって、心は良くなるからである。心は良くなるとは、「思慮が増す」とか「魂を研ぐ」といった意味合いになる。日本流に言えば「艱難汝を玉にす」ということなのだろう。順境の中にある人は、何年経っても、いつになっても、ものごとの表面しか見ない。しかし、悲しみに会うとき、人は深いものをさぐり、もし、悲しみを正しい態度で受け止めるなら、新しい力と美しさが魂に加えられる。ある人は、この至福の教えを次のように解釈している・・・・・

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『この世の悲しむ人、苦しむ人に対して、親身になって同情する人はさいわいである』と。しかし、私たちはここに留まっているだけでは不足である。最初に述べたように、私たちのすべての初めに、「悔い改め」を土台としていなければならない。神の前に真に悔い改める時にこそ、隣人の悲しみ、辛さが自分のこととして理解していけるものである。「悔い改め」

は、容易なことではない。誰にでも「我」というものが深く心の奥底に根ざしている。

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エスはこういわれました「心から出るものが、人を汚すのです・・マタイ15:18」。イエスはそうした人の弱さを知っておられました。だからこそ自ら身代わりとなって、死に、この弱き者たちを赦してくださいと、神に執り成しの祈りをして下さったのでです。私たちはそうしたイエスの祈りの故に生かされています。この事を、どうして感謝せずにおれましょうか。どうして自分の弱さに悲しまずにおれましょうか。

『ああ、どうして世の苦しみと自分の罪、弱さに対して深く悲しむ者の

さいわいよ!。何故ならこの悲しみを通して、神を知る喜びを見出すからである』

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今朝4時にこのブログへのお客が一人、9時に見たら、お客が90人、誰かが細工をしてくれたようだ。いずれにしても、お客さんは多い方が、お金にはならないが、嬉しいことである。朝からの雨模様も晴れ間を見て大館に久しぶりに買い物に出かける。ちえ子だけではない。母の時代からだ女の買い物に付き合うには骨がおれる。あ、思い違いだ。眼科にに行ったんだった。その帰りに買い物をして来た。お目目の調子がよくない、去年と全く同じ、再手術することになった。難儀なことだ。・・・・

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最近夜更かしと、お目目を使いすぎるからなぁ