イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月23日(水):地獄の教理

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地獄の教理について、私たちはうっかりしていた。イエス様の地獄に関する譬えや、教えはユダヤ人たち、また弟子たちに語られたものである。どこかの書物にそのことについて書かれていた。あれこれ忙しくしていたら

それがどこの書物に書かれていたのか、見失ってしまった。中沢啓介師もそのことに触れているとあったので、調べようとしたが、見出せなかった。結局、出典は明らかにできないが、どうやらキリスト教会はこれについて少し思い違いをしてきているような気がする。私たちは普通に、教会にいるクリスチャンは救われ、地獄へ行くのは未信者であると考えている。しかし、イエスが語られたのは、ユダヤ人の会衆と弟子たちに対してである。その言葉は、「私」個人に語られたイエスの言葉であって、ほかの誰に対してでもない。イエスの恵みを知りながら、なおイエスの求められる基準に達しえない者への、「戒め」として語られたものである。・・

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教会にあるクリスチャンは、地獄へ行くのは教会の外にいる未信者であると思い込んでいる。しかし、ここでおかしなことに気付く。イエスの名も十字架も知らない、知らされてない者が、地獄へ落ちるとは合点のいかない話である。その辺のことが私たちは、思い違いをしているような気がするのである。ユダヤ人の選民意識とまでは言わないが、多少なりとも私たちはそうした意識の中にいる。地獄の教理は、私個人に、あるいは、キリストの御霊を受けながら、「我」を残しているキリスト者への「戒め」の教理であって、教会があの人たちは・・・・と。指さす教えではないような気がする。お断りしておくが、御国があるとか、ないとかの話ではない。地獄があるとかないとかの話でもない。そもそも、誰も、教会も、イエスの名を知らない人たちを、指さすことは出来ない。地獄の教理は詰まるところ、私に語られるイエスの言葉であって、それを他人に転嫁するのは筋違いということななるかもしれない。・・・・・・・

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パソコンの操作も厄介だ、昨夜からインターネットに繋がらず往生した結局、ルーターをいじって直したが、一時はどうなるかと心配した。ネットから、千枚以上の画像を保存してあるので、これを失くしたら大変だ!。

ブログに写真を挿入するのが楽しみで、書いているようなものだから。

それにしても、若い人にはかなわない。昔のパソコンはもっと単純だったが、・・・老いたかな?。もう、夜は少し寒くなって来た。明日あたり灯油を買ってこなければ・・・・東北の温泉はほとんど回ったが、岩手の網張温泉だけはまだ行っていない、この秋行って見たいのだが、ちえこの機嫌のいい時でないと切り出せない、「どうしたもんじゃろねぇ・・・・」

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