・・・・・・荒城の月・・・・・
春高楼の花の宴 めぐる杯かげさして
千代の松が枝 わけいでし 昔の光いま何処
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の 数見せて
植うる剣に 照りそひし 昔の光今何処
今荒城の夜半の月 替わらぬ光 誰がためぞ
垣に残るはただかつら 松に歌うはただあらし
天上影は替わらねど 栄枯は移る 世の姿
写さんとてか 今もなほ 嗚呼荒城の夜半の月
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【歌の意味】春、満開の城で宴会が行われ皆に回される盃に月の光がさしている。幾年もの歳月を経た松の間から指し込んで、栄華を極めた光(光景)は何処へ行ってしまったのか。・・・・・・・
秋、かつて戦いが行われたこの場所に、霜が降りて、雁が鳴いて去って行く。木々のように刺さっていた剣を照らしていたかつての光は何処に行ってしまったのか・・・・・
今も昔も変わらない荒れた城を照らす夜半の月は誰のため。石垣に残るは葛だけ、松に歌いかけるのは風だけなのに・・・・・
天上の世界は変わらないけれど、人の世は移ろいゆく
それを写そうとして今もなお
ああ、荒れた城の夜半の月よ・・・・・・
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廉太郎は、明治12年に東京に生まれ、明治36年に結核のため没している。父が明治政府の官吏であったため各地を、転居を繰り返し、この曲を作ったのは大分県武田市に住んでいた時だった。音楽の才能が秀でていて
父吉弘は本人の希望通り、現在の東京芸術大学音楽部に入学を許した。・・・
この曲は明治34年、廉太郎21歳にして、作曲し発表した。土井晩翠と出会いもあり、晩翠がこの詩を書いた。ドイツ留学を果たしたが、結核に罹患し帰国を余儀なくされた。その後も病状は悪化を辿り、留学中に帰国し、明治34年没した。彼は、20歳の頃に東京都麹町区の聖公会の教会で元田作之進より洗礼を受けている。その生涯はわずか25年であったが、日本の歌謡史上に輝くばかりの光を放った。因みに「箱根八里」も彼の作曲であった。・・・・・・・
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それにしても、前にもどこかで書いたが、英才、天才と言われる人たちはどうしてこうも短命な人が多いのだろうとつくづく思う。啄木もシューマンもパスカル・・・・も数え上げたら切りがない。
今日の礼拝は、佐々木秀一先生がご奉仕して下さった。感謝!!!
晴美さんから手作りのバックが届いた。器用な人だ、この前はマスクを頂いたが、みんな信徒さんが持って行ってしまったと書いている。多分このブログを読んで、笑いながら別のものを贈ってくれたのだろう。感謝!!。