『あなたの恵みは大きく、天の上まで及び、
あなたのまことは雲にまで及ぶからです』詩篇108:4節
神のご本質は、恵み、まこと、偽りのない祝福、善意、愛です。しかもその恵みは天にまで及ぶのです。
「天にまで及ぶ」とはどういうことでしょう。草深い所に隠れた老詩人、塩田章の「青空」という詩を最近発見しました。
こころ
青空に
すまわんと
願わば一すじに
まなこをふたつ
天に
むけよう
一筋にまなこを二つ天にむけると、神の恵みの高さ、神のまことの天的な高さを発見するでしょう。この天的な恵みとは、第一に、天の高みから、黒い岩の上にはいずり回る一匹のアリまで見て、知って、愛し、いとおしみ、はぐくんでくださる、この小さく弱い私への神の愛の行き届いた恵み、まことです。第二に天の高みの恵みは、無限大の祝福です。神の恵みは、どん底まで届き、そのどん底にいる私たちを天の高みまで引き上げる力を持つのです。第三に、天の高みの恵みは、天国とか永遠という言葉を表す、世のものを越えた、質の違う恵みです。それは永遠のいのち、喜び
、愛などです。塩田章の「青空」とは、もちろん天にいます私たちの父なる神です。・・・羽鳥明、今日の詩篇10月2日・・・より
この塩田章の詩は何処か、八木重吉の詩に似たところがある、下記に記すのは重吉の書いた詩であり、自然界の中にそれぞれが、神の御業を感じているようだ。
きりすとを おもいたい
いっぽんの木のように
おもいたい
ながれのようにおもいたい
草にすわる
わたしのまちがいだった
わたしのまちがいだった
こうして 草にすわれば
それがわかる
☆ ☆ ☆
都会暮らしを避け田舎にいると、これらの詩の意味がよくわかる。山奥の大きな杉の木の陰に、一輪の小さな花が咲いている。薄紫の花が、人目につかずとも確かに咲いている。芽が出てから花が咲いて、たまたま私の目にとまったが、私が見ようが、心に留めようが、そんなこととは関係なしに可憐に咲いている。やがて、枯れはするだろうが、種を残し、次の年もその子が同じように薄紫の花を咲かす。・・・・・・
深海に目のない魚がいるという。暗黒の海の底で彼らは生きている。たとえ目があっても、その目には暗黒以外は映らない。主なる神は、何故この深海に魚を住まわせるのか、私たちにはこの不思議さが分からない。ただ天を仰いで神の御業を覚えることが出来るなら、深海の魚に、暗黒の世界でも、彼らを生かし、神は命を育んでおられるのである。青空を見上げ、深海に想いをはせながら、神の御業を想えることは幸いなことなのだろう。
今日は、薪作りをした。朝から青空で、これまで貯めておいた廃材をカッターで30センチくらいに切って、ストーブ用に準備した。冬はたいていこの小屋に薪ストーブを据えて、ここで過ごす。薪ストーブの暖かさは格別に気持ちがいい。一冬使用するにはまだ足りないが、明日もやる。
今月の末に、お客が来ることになった、県南の「むのたけじ」の資料館を見たいとのことで遠くから、三泊四日の予定で来ると言う。直接の友人ではないが、主にある兄弟姉妹、奥様は障害者だとか言っておられたそうだが「朋遠方より来る亦楽しからずや」これもまた主にある者同士の、恵みの交わり・・・・・