イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月12日(月):清貧の人

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ウィリアムズは、1829年アメリカに生まれました。父は彼が幼い頃に戦死し、母の手一つでそだてられました。母の信仰を見ながら育ち、24歳の時

宣教師となる決意をし、最初は中国へ渡りましたが、1859年(安政六年)に日本へ最初のプロテスタント宣教師としてやって来たのでした。当時の日本はいまだ、キリスト教を信じることを禁じていた時代で、その高札が立てられ自由な伝道は出来ませんでした。それで、ウィリアムズは言葉によらず、行いによって伝道することを心がけ、どんな人に対しても親切を尽くして助けました。・・・・・・・・・

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よきサマリヤ人・・イエスの譬え話

清貧の生活・・ウィリアムズの月給は700円(当時)くらいだったそうですが、彼は月15円で生活しました。いつも粗末な食事ですませ、冬はストーブも焚かず、服はと言うと古着屋から買って来ていました。また、古ぼけて破れたカバンを提げて旅行するので、しばしば西洋乞食に間違えられました。ある時、駅の待合室で、「乞食は向こうへ行け」と駅員に叱られたので、言われるままに隅にいますと、大勢の信者たちが見送りにやって来たので、その駅員はビックリ仰天、恐縮したということもあったそうです。ウィリアムズの家には炊事人がいて、買い物をして帰るとしばしばもっと安いものに代えてくるようにと言われるので、炊事人は我慢が出来なくなり「どうぞ、おひまをください」と申し出ました。「仕方がありませんね」とウィリアムズは言って、炊事人に、一冊の預金通帳を渡してこう言いました「これは、買い代えて貰ったときの、浮いた分をあなたのために貯えておいたものです」。炊事人は驚き、自分の不心得を深く詫びて

それからは、忠実に仕えたということです。・・・・・・・

彼はあまり日本語は上手ではありませんでした。しかし、その話には不思議な力がありました。

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また誰でも彼を見ると、イエス様を見るような気がして、仏教のお坊さんまで、その人格に打たれて合掌したということです。彼は30歳で日本へ来て、79歳まで伝道し力の限り働き通されたので

頭も、体も動かなくなり困難を覚えるようになりました。彼は決断しました。このままでは人の厄介になってしまう。それは避けねばならないと思い。密かに日本を離れ、母国アメリカで、日本人の救いのために祈り続け

82歳で眠るが如く天に召されました。

 

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詩  逸話

ウィリアムズ監督は

築地の赤い煉瓦造り

蔦が一面に生え繁った

古びた建物の二階に住んでいた

そこは道を一つ隔てた立教女学院

寄宿舎からもよく見えた。

 

朝は六時になると

ウィリアムズ監督のお部屋の窓が

夏冬を問わず必ず開いた

夜の十時になると

必ず電灯が消えた

立教女学院の寄宿舎では

朝がくると 舎監の先生が叫んだ

「監督さんのお部屋の窓があきました

さぁ、皆さん起きて・・・・・」

よるがふけると

「監督さんのお窓の灯が消えましたよ

いつまでもお話してないで

さぁ、早くおやすみなさい」

と言った。

みんなの心と目が

いつも老いた聖者の物静かで敬虔な

一挙一動に向けられていた

(高瀬恒徳詩集 葡萄園より)

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北秋田市阿仁町に昔に鉱山技師が住んだ「異人館」が残っている。

8月に姪っ子たちが遊びに来て、見に行きたいと言っていたのだが、残念ながら見れなかったようだ。近代日本は、そうした技師や、宣教師の働きによって大きく変わった。それと、そうした、技術、文化、宗教を吸収して育った。江戸時代から、日本人は「識字能力が高かった」。街では寺子屋があり、庄屋さんたちも、能力のある者には読み書きを教えていた。

日本の今日の発展は、そうした事柄に裏付けられているような思いがする。私たちが小学校の頃、田圃で働く人からよく声をかけられた「今日は何時間座って来た?」(何時間勉強してきたかと)「5時間」と答えると

「ほう、エライな・・・」とよくほめられたものだった。

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