イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月16日(金):神童

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『十歳(とお)で神童、十五歳(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人』とよく言われる。田舎の学校で成績抜群、なかなか見どころがありそうな子を、今ほど開かれた社会出なかったためか、案外神童と思われ子がいたものだ。ジェーン・エァを書いたシャーロッテ・ブロンテ、嵐が丘を書いたエミリー・ブロンテ姉妹の兄、ブランウェルもそうしたうちの一人だったろう。既に妹たちは小説を書き、有名になっていた。

イギリスの田舎町で、神童と呼ばれていた彼は、勇躍ロンドンへ出て見たものの、右も左も神童だらけだった。ブランウェル程度の者はロンドンには、珍しくもなかった。文学と絵画での成功を目指し、妹たちに続こうとしたが、どうやらその才能は持ち合わせていなかったようである。妹たちの成功を見るにつけ、コンピレックスは増すばかり。結局、ただの人にもなりきれず、酒とアヘンに身を滅ぼし、1848年31歳で急死した。・・・・

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私たちの義務教育のクラスは戦前生まれで、児童数が少なかった。小学1年から中学までずっと一クラスで通してきた。9年間同じクラスでいると、ガキ大将もいなければ、落ちこぼれもいなかった。みんな《なかよし》だった。ただ、成績は一番から50番まである。そのトップに常にいた男が親友のMという男子だった。確か姉がいて「お茶の水女子大」を出ていた。

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彼もずば抜けて成績が良かった。「神童」とまでは言われたことはないが

肩幅も背丈もありしかも、実に人懐っこい美男子だった。私はいつも彼と一緒だったが、こいつは何処かおかしなところがあった。ある時、どんな経緯か分からないが、「決闘」して来ると裏の台地に出かけて行った。

間もなく帰って来たので「どうした?」と聞くと「負けてきた」とこともなげに答えた。中学になって、柔道部が出来て、私が初代キャプテンに監督から指名された。Mも入部してきた。運動神経は悪くはないが、どういうわけか、二度も鎖骨を折る怪我をして、まわりを呆れさせた。楽器などのない時代に、「作曲してみようか」と、とんでもないことも言い出すのである。しかし、憎めない愛すべき男であった。先に書いた、姉はその頃

ノイローゼ(当時は精神病をみんなそう言っていた)になって自殺していた。村の者たちはあそこの家系は、そういう人が出る家系だと考えていた。Mに妹がいた。それなりの看護学校を出て務めていたが、二つ三つ下で、きれいな子で、私にとっても、幼なじみのかわいい子だった。・・・

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ある時、私の母親が、「何日か前に、Mの母親が訪ねてきて、Mの妹を私の嫁にもらってくれないかと、申しいれてきたが、断っておいた」と。事後報告をした。私は唖然とさせられた。「なんてばかなこをしてくくれたんだ」と、内心怒ってみてもはじまる事ではなかった。母の言ったことは私の知らないことで、娘さんをお嫁にくださいと、何度も行こうとしたが結局それはならなかった。当然、Mにもこの件は伝わったはずである。親友同士の間に微妙なひびが入ったことは言うまでもない。本来ならば、義兄弟になっていたはずなのだが、そうはならなかった。私の母のちょっとした思い違いを、正す勇気が私になかっただけのことである。・・・・・

彼女はその後、沖縄の方に渡ったと聞いている。母親のお葬式には帰って来たらしいが会うことはなかった。秋の台風シーズンになると、無事でいるかなと、せんない案じ方をしている。そう言えば彼女も生きていればちえこ子と同い年かな。・・・・これもまた主の定めた私の人生か・・

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Mが亡くなってから、数年になる。奴がこんなに早く逝くとは思わなかった。昨日、彼の弟の嫁さんにあった。「Mがいなくなって、寂しくてしょうがないんだ・・・」そう車の中から声をかけてきた。本当のことだ!。

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