イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月28日(水):鬼籍の人たち

f:id:dotadotayocchan:20201028151015j:plain

一年ほど前、同級会の案内が来た。珍しく欠席の通知を返送した。私たちのクラスは、戦前生まれで生徒数も少なく、小学1年から中学まで、9年間一クラス50人でずうとやってきた。クラス替えはなかった。だから、同級生は、それぞれどういう境遇にあるか皆が知っていた。転校生、転入生は一人二人くらいしかいなかった。たえず50人のクラスであった。・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200722142738j:plain

そんな同級会だから、地元で生活している者はたいてい出席した。が、わたしはこの度は、出席する気にはなれなかった。後期高齢者とやらにさせられて、まわりをみると、誰もいなくなっていた。同級生で特に親しくしていた者たちは、鬼籍に入った。同級会に出て、やぁ、やぁ!と親しく声をかけられる、かけたい者は皆鬼籍に名を連ねていた。・・・・

不思議なくらい、私の会いたい人はいなくなっていた。50人のクラスも今では、私が確認しているだけでも8人にもなる。その他都会に出て行ったものの中に何人かは消息が分からない。・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200602151016j:plain

kと言う同級生がいた。小学生の頃は家は隣同士だった。度胸のいい男で

今でも忘れられないが、校庭のブランコを私を座らせたまま、ひっくり返りそうになるまでこぐのである。私は、今にも地面に落っこちそうで、随分怖い思いをしたが、kはニヤニヤ笑っていた。高校は別々になった。3年生くらいになると彼は「番長」を張った。もともと、優しい男だったので、自分ではそうは思っていなかったようだが、まわりがそう思っていた。ある時駅前で、バッタリであった。「ヨシノリ、御所野をコテンパンにのしてやったからな。あいつ、三浦にヤキを入れてやったと言いふらしてあるいていたので、ヨシノリは俺のダチだ、よくもやってくれたなと言って、ボコボコにしてやった。・・・・」

f:id:dotadotayocchan:20200626095254j:plain

と私の仇を討ってくれたことを教えてくれた。実は、少し前その御所野という他校の生徒に、トイレに引きずり込まれ、「生意気だ」と言うことで、往復ビンタをくらっていた。抵抗はしなかった。喧嘩の仕方を知らないわけではなかったが、その頃はみんな下駄を履いていた。奴の「弁慶の泣き所」を蹴り上げ、後はボコボコにすればよいだけだったが、「貧しい家の子」は、事の是非を問わず問題を起こしてはならなかった。停学や退学処分は避けねばならなかった。御所野も優しい男だったのか、往復ビンタもさほどきつくはなかった。しかし、何倍ものお返しをされた。・・・・・・可哀そうに・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200809191638j:plain

そのkも早くに亡くなった。還暦も大分前だろう。その頃は私の家は引っ越して隣村にいたので、詳しい経緯は分からない。10年程前、まだ仕事をしているとき、kの奥さんから電話があって、窓の修理を頼まれたことがある。仕事が済んで、雑談の合間に奥さんが恨み言を言い出した、「主人は、障害のある子を遺して、自分だけさっさと逝ってしまった」と。・・

それからしばらくして、もう一か所窓をつけて欲しいと連絡があり、出掛けた。そしてまた、奥さんの苦衷を聞かされた。絶食障害の子で、食事の世話が大変らしかった。自然食品を扱っている店もあるが、それも限りがある。唯々話を聞くしかなかった。・・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200616062310j:plain

驚天動地の事件がその後に起きた。奥さんがその子をあやめ、自分も死ぬために山へ入った。警察による捜索が始まり、一旦は保護されたが、留置場で目を離した隙に亡くなっていた。この事件は既に公になっているので

敢えて書いているが、私は兼業であるが、牧師である。あの時なぜもっと親身になって、やれなかったのか。まして。「義理」のあるkの残された家族である。悔恨は残る。私の至らなさは主が赦してくださるとしても、それで、万歳という訳にはいかない。生きている限り「苦さ」(にがさ)は消えることはない。「kよ、すまない、俺は牧師のくせに、お前の家族を守れなかった」・・・・

まだ、事は終わっていなかった。教会に洗礼を受けたいと一人の女性が、ある人に紹介されやって来た。話を聞いて、驚いた。彼女は生まれながらの障害のある子を抱え、母親を亡くしたばかりだった。ケースとしてはkの奥さんと全く同じ状況にあった。このことは彼女には話してはいないし、彼女はしっかりした女性だ、余計な心配は不要だが、このうすぼんやりした牧師は、過去のうすぼんやりを引きずって行かなければならない。

主イエスは、『わたしはお前を裁かない、しかしお前の過ちは、わたしの

ところへ来る迄、引きずって来なさい」と。仰せられる。

f:id:dotadotayocchan:20200918192435j:plain

私たちは、主の贖いによって過ちを裁かれることはない。しかし、間違ってはいけないことは、罪を犯した苦さは、御国に入るまで残る。主が私の衣を白くきよめて下さるまで、残る。そのことを忘れないようにしたい。 

オリゲネスの言葉だったろうか?。『傷は残るのです』とある。私たちの犯した過ちは、心の奥底に深く残っているのです。それなのに、多くの人は赦された、赦された、と叫んでいる。果たしてそうだろうか。忘れようもない傷となって残っているものに深く想いをいたす事によって「真の悔い改め」ができるように思われる・・・・・。