イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月29日(木):現代の聖人 賀川豊彦

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賀川豊彦1888年明治21年)~1960年(昭和35年)は、大正、昭和のキリスト教社会運動家、社会改良家、戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、共同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に知名度が高く、戦前は、現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュバァイツァー」と称された。茅ヶ崎の平和学園の創始者である。・・・・

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彼の関わった働きをざっと見ただけで、いかに幅広く、そして、我々の生活に深く関係しているか思わせられる。・・・・・・・

我が尊敬するバークレーも賀川にについて次のように記している。

現代の聖人賀川豊彦は、最初キリスト教に接した時から魂をとらえられ、

ついに「神よ、私をキリストのようにして下さい」と叫んだ。キリストのようになるために、彼は貧民街に住み、結核をうつされた。彼は人間として最低の生活をした。

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シシル・ノースコットは、『特筆すべき決断の時』

という本の中に、賀川の業績を記している。彼は、神戸の貧民街の二畳の小屋に住んだ。「最初の晩、伝染性の皮膚病をもった男がきて、一緒に寝かせてくれと頼んだ。これは彼の信仰の試金石であった。彼はこんな生活をやめてしまおうかとも考えたが、決心してこの男と一緒に寝た。それから乞食が来て、彼が着ていたシャツを貰って帰った。翌日その男が戻って来て、今度は、上着とズボンを持って行った。賀川はボロボロの着物一枚になった。貧民街の人たちは彼を笑っていたが、やがて尊敬するようになった。彼は耐えず咳をしながら、どしゃ降りの雨の中説教した。『神は

愛である』と彼は叫んだ。『神は愛である。愛のあるところに神がおられる』。彼はしばしば力尽きて倒れたが、貧民街の荒くれ男は優しくかかえて、小屋に連れ帰った」・・・・・・

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賀川豊彦自身が次のように書いた「神は、最もいやしい人の間に住まわれる。神は刑務所の囚人の部屋に積るちりの上に座られる。神は非行少年と共に立ち、乞食と共におられる。神は病人の間に住み、失業者と共に立っておられる。神に会おうとする者は、神殿に行く前に刑務所を訪れるがよい。教会に行く前に病人を見舞うがよい。聖書を読む前に乞食を助けるがよい」と。・・・・・・

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ここに偉大さがあるこの世が人の偉大さを評価する基準は、その人が支配し、使用する人の数、等々であるがイエス・キリストの評価の基準は、異なっている。それは我々がどれだけ多くの人をたすけたかと言うことである。【マタイの福音書20章20節~28節までの師の解説】

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・・・エピソード・・・

大宅壮一は、賀川の追悼文の中で、「大衆の生活に即した新しい運動・社会運動、組合運動、農民運動、共同組合運動など、およそ運動とと名の付くものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると言っても過言ではない。

近代日本を代表する人物として、世界に誇り得る人物である」と記してある。ノーベル賞候補に幾度となく挙げられたが、如何せん戦後間もない時代である。かなうことはなかった。それに天皇制・皇室の支持者でもあり、ハンセン病についての見解の相違など、尖鋭的者たちからの批判もあった。世界の賀川の彫像がワシントンの大聖堂に掲げられているという。

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学生時代確かに賀川豊彦のことを学んでいた。専攻は「社会政策論」で、賀川の運動と深いかかわりがあった。書籍が残っていた。隅谷三喜男東大教授の本で、この教授がクリスチャンだとは知らなかった。それでもどこか労働問題を扱う人は、過激になり易いが、著者の視点が優しかった。いつだったか、先生の話をしたとき、八郎潟教会で、深瀬牧師が教授の御子息の結婚式に司会をしたことを知らされて驚き、不思議な縁もあるものだと、感じた。

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