イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月3日(火):成長しない者

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いつまでも成長せず子供のように振る舞う人がいる人たちがいる。すねたり、癇癪を起したり、自分の思うようにならなければ何もしないと言うようなことは、子供の場合ゆるされるかもしれないが、このような大人が大勢いること、しかも教会の中にいることはまことに困ったものである。こういう人たちは、生理的に成人であっても、その生活態度において子供でしかない。成長が止まった人たちはまことに気の毒である。この世は、宗教的に成長が止まった人たちで満ちている。こういう人たちは、成長のための努力をしない。既に幾年も前に学ぶことを止め、子供のままの考えを持ち、子供のように振る舞っている。

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エスは「子供のような」心は一番尊いと言われたが、「子供のような」というのと「子供っぽい」と言うのは意味が違う。ピーター・パンは成長しない少年で、芝居で見る場合には興味深いが、実生活の中でピーターパンを演ずる人たちは悲劇である。我々は子供の宗教にとどまらず、円熟した信仰に達するように努力しなければならない。子供っぽい振る舞いを止めて、大人としての態度を身につけなければならない。(へブル書5章11~14節・W・バークレー

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     ☆         ☆           ☆

私たちはこのバークレーの指摘を真摯に受け止めなければならない。

♫「信じる者はみ~な救われん」♫・・・と歌うけれど、「信じる」とはどういうことなのか考えないのである。教育勅語を暗唱するように、これさえ唱えておれば、「非国民」にはならないだろうと、それと同じように、単純に信じて救われていると思い込んでいる人たちがいる。それはしばしば、念仏信仰に似ている。私たちは、「イエスを信じ切る」と言うことがどんなにむつかしい事か知る必要がある。平穏無事に過ごしているときには「イエスは主である」と。クリスチャンなら誰でも言える。しかし、艱難が襲ってくると、誰でもうろたえる。子供っぽい信仰の者はえてしてそこで向きを変えてしまう。急にこの世の大人の考え方に従い、子供のような純真さをかなぐり捨ててしまうのである。健全な信仰とは、絶えず成長を伴う。子供の心と、大人の足を持って、進むものでありたい・・

【ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけまで達するためです】エペソ書4章13節・・・・・・

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竹内ご夫妻が先ほど無事家に着いたと連絡があった。さしたあるおもてなしも出来なかったが。東北の旅、良い思い出になればと願っている。今年ももう11月の3日か。この一年随分いろんなことがあったな~。試練の中にある人たちもいるけれど、すべて主の御手のうち、絶えざる祈りを主は求めておられる。朝の祈りにちえこも出るようになった。私が起きると猫のアルが起きる。アルがちえこに猫パンチ。「コラコラ起きろ、オトーサンが出掛けたぞ」。30分ほど遅れてやってくる。榎本先生の教えの通り

朝の時間を聖別している。イエスがこの事を祝福して下さっておられる。

それを確かに感じられる・・・・

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