バビロンの川のほとり、
そこで、私たちはすわり、
シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に
私たちの竪琴を掛けた。
それは、私たちを捕らえ移した者たちが、
そこで、私たちに歌を求め、
私たちを苦しめる者たちが、
興を求めて、
「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。
私たちがどうして、
異国の地にあって主の歌を歌えようか。
エルサレムよ。
もしも、おまえを忘れたら、
私の右手がその巧みさを忘れように。
もしも、私がおまえを思い出さず、
私がエルサレムを
最上の喜びにまさってたたえないなら、
わたしの舌が上あごについてしまうように。(詩篇137篇1~6節)
イスラエルの人々が、バビロン捕囚の苦しみの中で神に祈ったうたである。彼らのその屈辱の生活の中で一番苦しかったことは、彼らに課せられた過重な労働ではなかった。またその惨めな生活でもなかった。一番苦しかったことは、バビロンの人々からの自分たちの神を蔑せられ、侮られたた事であった。本当にお前たちを守る神がいるなら、お前たちは何もこんなに苦しめられるはずはないじゃないか、それでもお前たちは神がいると思っているのか、一体どこにお前たちの神はいるのだと、彼らはそんな嘲笑の中で、お前たちの神を讃える歌をうたってみよとまで言われた。・・
多分、そう言われて我々は神に見捨てられた、あるいは神はいないのだと思い始める者も出て來ることだろうと思う。しかし、エゼキエルはこれは神がイスラエルに与えた試練であると語っている。イスラエルがもう一度清められ、新しくされるために必要なことなのだと説いた。・・・・・
その事実は詩篇126篇の歌われている。
主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
「主は彼らのために大いなることをなされた」
☆ ☆ ☆
バビロンの70年の間にバビロンに変わりペルシャのクロス王が現れ、イスラエルを開放した。この時、イスラエルの民は、主は世界を治めている神であることを知った。まさに、「民族の神」から「世界を支配する神」への転換点となる出来事であった。