イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月20日(金):来て、そして、見なさい

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『ピリポは、ナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい」』

  ・・・・・ヨハネ福音書1章45~46節・・・・・

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エスに招かれて弟子となったピリポは、友人ナタナエルに会ってこう言ったのである。それに対しナタナエルはにべもなく答えた「ナザレから何の良いものが出るだろう」。旧訳聖書の何処にも神の選びの人が出るなど預言されていない。ガリラヤの田舎町から、どうして偉大なものが出るだろうか。ということなのである。そこで、ピリポは賢明だった。彼は議論はしなかった彼が言ったことは単純だった。「来て、そして、見なさい」

議論に説得されてキリスト教に入った人々は少ない。私たちの議論は、益となるよりは害になることが非常に多い。人にキリストを信じさせる唯一の方法は、その人をキリストを引き合わせることである。すなわち、人々をキリストへと勝ち取るものは、議論がましい、哲学的な説教や教えではなく、それは、十字架の物語を示すことである。・・・・・・・

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19世紀の終わりの頃、偉大な不可知論者、ハックスレーがある名士の邸宅に客として泊まっていた時のことである。日曜日が来て、客人のほとんどが教会へ行く準備をしていた。当然のことだが、ハックスレーは行こうとしなかった。ハックスレーは、単純で熱心な信仰を持っていた一人の男に歩み寄り言った。「あなたは今日、教会へ行くのをよして、家にいて、あなたにとってキリスト教信仰が何を意味するか、あなたはなぜクリスチャンなのか、ごく簡単に、私に話してくれませんか」。しかし、その男は言った。「きっとあなたは私の議論など、たちまち砕いてしまうでしょう。私はあなたほど賢くはないですから」。ハックスレーは穏やかに言った。

「私はあなたと議論するつもりはないのです。ただ、あなたに、キリストがあなたにとってどういう意味があるのか、話してもらいたいのです」。

その男は家に残り、彼の信仰について、最も単純にハックスレーに語った。彼が話し終えて時、この偉大な不可知論者の眼に涙がたまっていた。

「もし私がそれを信じることができさえしたら、私はそれに身をささげるのだが」とハックスレーは言った。ハックスレーの心を動かしたのは、明晰な議論ではなかった。」・・・・実際こんなことはあるのです・・・

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最上の議論は、人々に「来て見なさい!」ということである。問題は、キリストのもとに来るように他の人々を招くには、自分自身、キリストを知らねばならない。自分自らキリストを知っている者のみが真の伝道者なのである。・・・・・・・少し耳が痛み出した・・・・

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今日は朝から小雨模様、一日一歩も外へ出なかった。犬のまるが廊下で顎を出して寝ている。名古屋のしずこさんから、いつものパンと、柿などが贈られてきた。感謝。お世話になった人からいまだにお世話になっているのもおかしなことだが、隣人の親切を、喜んでお受けするのも信仰のうち。・・追記:ハッピーどころではなくなった。シバタさんの状況を聞いた。主よ、という祈りしかない・・・・がんばれ・・・祈る・・・

 

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