イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月21日(土):英雄と臆病者

f:id:dotadotayocchan:20201121164244j:plain

『イエスは彼に言われた。「まことにあなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」。弟子たちもみなそう言った』

    ・・・・マタイ福音書26章34~35節・・・・

聖書の注解者、説教者は往々にしてこのペテロのしくじりを取りあげる。

だが、私たちは忘れてならいことがいくつかある。弟子たちは皆、(ヨハネを除いて)イエスを見捨てて逃げ去っていた。だがペテロは、大祭司邸に踏みとどまっていた。(隠れるようにしてではあるが)。・・・・

ゲッセマネの園では、

f:id:dotadotayocchan:20201017111824j:plain

大敵を向こうに回して剣を抜いたのは彼だけだった。彼はただ一人の勇敢な男だった。ペテロについてまず考えなければならないのは、彼のしくじりではなく、他の者が皆逃げ去ってもイエスの側にいたその勇気である。確かにペテロはしくじりをしたが、他の弟子たちが皆逃げ去った後の失敗である。言葉を換えれば、イエスの下に踏みとどまったが故の否認であった。むしろ、私たちは彼が勇敢であったと見ねばならない。・・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200404101815j:plain
私たちは、ペテロがどのように自分を償ったかを思い起こさねばならない。この失態の出来事はすぐに仲間内に広まった。大衆は悪意のある物語を愛するからである。伝説が語っているように、ペテロが通ると、人々は

鶏の鳴き声を真似たというのは本当のことであろう。・・・・・・

問題の核心は、二階部屋で忠誠を誓ったのが真実のペテロであり、園の月明かりの中で一人剣を抜いたのが真実のペテロであった。自分は主を残して去ることが出来なかったために、イエスに従って行ったのが真実のペテロであった。緊張の中で押しつぶされそうになり、主を否認したのは真実のペテロではなかった。そこにおいて、ペテロはイエスを理解することとなった。失敗だらけの自分の奥底に、イエスは理解し示し、赦しを示し、やがて変わりゆくであろう弟子に、愛を教えたのである。イエスの赦しの愛がどれだけ尊いものか、この愛弟子は悟っていくことだろう・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20201017111718j:plain

姦淫の罪を犯していた女がイエスの前に、パリサイ人たちのよって連れて来られた事件を覚えているだろうか。ウィリアム・バークレーの書物の主題は、「第二の機会」ということだそうである。「わたしは、やがてあなたと会えるのを楽しみにしている」。ペテロにもイエス様はそう語られたのだろうか・・・・

f:id:dotadotayocchan:20201114104804j:plain

竹内先生から今日もお便りをいただいた。筆まめな方で、嬉しい限りである。自分はと言えば、ブログは書くが、手紙は書けないというおかしな習性がある。平にご容赦を・・・ちえこはそれでも筆マメだ。今日眼科の帰りに、しほこさんの所へ寄って来た。お粥を食べて、5キロ痩せたとのこと。ふ~ん、似たことがあるもんだね・・・・しほこに負けてはいられねぇ~・・・・