イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月22日(日):神の姿

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『イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは「私たちに父を見せてください」と言うのですか』(ヨハネ福音書14章9節)

おそらく、これは当時の人のみならず、私たちにとってもイエスの語った言葉の中で最もショッキングなものであったであろう。ユダヤ人は、いかなるときも神を見た者は一人もいないということを信仰の箇条として考えていた。私たちの固定観念の中にも「神はみえざるもの」「ありてあるもの」として深く印象付けられている。そして、もし神がこの世界に来られるとしたら、誰もが、その偉大さを称賛するような権力と尊厳とをもって、さる宮殿に王としておいでになるだろうと、考えていた。そうすれば誰もが「王なる神に」ひれ伏すだろうに・・・・・・

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にもかかわらず、イエスはナザレの寒村に大工の子として生まれ、育った。しかも30歳まで、彼は大工の子であった。バプテスマのヨハネのところでしばらく、しばらく学んだかも知れないが、イエスの宣教期間は極めて短い。それは長くて3年、実際は二年に満たないとも考えられる。・・

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にもかかわらず、神はイエスを通してご自身をあらわされた。イエスの言葉は、人間に語りかける神の声である。イエスの行為は、イエスをとおって人間に流れる來る神の力である。イエスは神が人間のもとに来たり給う経路であった。すなわち、イエスは神のメッセージ、神の心、人に対する神の思いを持って来られた。短い生涯の中で、イエスは神の心を余すところなく我々に伝えた。我々がこの世を生きていくために、必要なものは全てイエスの、言葉と、行いの内に凝縮されて存在している。ユダヤ人が考えたように、人間は神の全体像、神の姿を見ることは、不可能である。それはキリスト者であっても同じである。我々の視力、理解力は、「神の全体像」を捉えることは出来ない。神はそのような私たちに、御子を遣わされたのである。イエスはそのつとめを全うされた。十字架の死に至るまで

神への服従を、身をもって示された。それは、滅ぶべきものへの神の思いやりであった。『我が子を見よ、そこに満ちているものが、わたしである。お前たちが生きていくうえで、一つも欠けているものはない』と。

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エスに関して「満ち満ちる」という表現が、新約聖書の中に、6~7回ほど記されている。神はイエスのご生涯を通してご自身の表されたのである。「イエスに聞け」そこに我々の生き方のすべてがある。

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最近、ちえこも賢くなったのか、いろいろなものごとを決めていくとき

「イエス様ならどうするか」ということをまず考えるようになり始めている。まだほんの少しだけれど、それが、イミタチオ・クリステイの基本方針なのだが、人の業は深い。悟り得ない多くのものを我々は持っている。

そこに、祈りが生まれてくる。祈りなしにイエスにまみえることは出来ないし、その道を歩むことも出来ない。せめてイエスの満ち満ちるさまに憧れて生きていきたいものである・・・・・・・

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今日は、佐々木秀一先生が礼拝のご奉仕をして下さった。奥様もしばらくぶりにおいでになり、感謝・・・・12月は、27日の予定です。