イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

12月2日(水):それでも私は行く

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議会で説教するペテロ

ギリシャのすぐれた勇士、アキレスは、生きて帰れるのは不可能と思われる戦争にでも出て行くかどうかをたずねられたとき、あの有名な言葉を残した、『それでも私は行く』・・・・・・・・

ペテロとヨハネが引き出されたのは、議会であった。議会はユダヤ最高裁判所で、ローマ支配下にありながら逮捕権を持っていた。そしてそこの構成員は大祭司をはじめユダヤのそうそうたるメンバーがそろっていた。

それに比べ、ペテロは無学な者であった。「議会はペテロとヨハネが無学な者たちとみなした」(使徒4章13節)。しかし、彼らの前に、ペテロによって癒されたあしなえの人が立っていた。この事実を誰も否定しようがなかった。彼らは困惑したが、目の前の事実を受け入れようとしなかった。彼らの尖鋭的論調は、裕福なサドカイ派や、祭司たちに不安をもたらした。事実を前にしても人は、あらゆる理由を見出し、それを葬りさろうとするものである。それは往々にして今の安逸を失いたくないためである。彼らがしたことは、あの無学な漁師たちを侮辱することであった。そして脅迫することであった。どうせ彼らは普通の人に過ぎないのだから。

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キリスト教は、無学な男たちが目にした単純な事実から出発していた。その事実は、敵も。味方も共有していたはずなのだが、道は二つに分かれた。この原則的なことは、二千年来変わらない。私たちは、殊更意識することのない事柄であっても、たえず、二者択一的選択におかれている。

ともすると、聖書の物語を、昔話のように錯覚することがある。そしていつの間にかサドカイ派の一人になりそうな時がある。眠たいときがあると

いつしか、うたた寝をはじめてしまう。今も使徒たちが証言した事実を遠くへ追いやって、このままでもたいしたことにはならない、思い違いをしてしまう。しかし、主イエスにお会いした人たちは違っていた。・・・

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十字架にかけられ、葬られたはずのイエスを、彼らは見た。彼らの驚きと喜びは私たちの想像をはるかに超える。今はもう、ガリラヤの漁師でもなければ、普通の人でもなかった。聖霊が彼らに言葉を与え、勇気を与え、イエスへの信頼を与えた。ペテロの偉大なる説教は、いかなる困難があっても「それでも私はいく」という決意を示している。

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今日のお話よくわからないわ・・僕もだよ・・おバカさんね・・ハイお詫びに小話を

あるうら若き乙女が恋文をもらった。

加奈子さんはまんざらでもなかったが

白い角封筒を開いてがっかりした

書き出しはこうだった。

拝啓

『変しい 変しい 加奈子さま・・・・』

 

箴言:あなたは若き日に字を覚えよ・・・・

私も委縮してしまった・・・・・

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おばかさんね