イエスは、マタイの福音書では王であり、マルコではしもべ、ルカでは、「見よ、この人」と呼ばれる方である。このような異なった強調点は、誇張して述べられることもあるが、この場合は事実その通りである。福音書の各記者が、四福音書の特徴を意識して描いた、と言おうとしているのではない。四人の福音書記者は、自分の記録自体に語らせることを望み、決して自分の見解にあわせるために曲げる、などと言うことは考えもしなかった。彼らはそれぞれの福音書を別個に記したのであって、記録を総合的に構成して究極的には四重の筋書きにするなど思いもつかなかった。同時に、記者たちはそれぞれの読者層を想定して、自分たちの資料をそれに合うように選択したとも言える。その一方で、聖霊が、四重の描写を神の意とした形へ導いているのである。こうして表されたイエスは、マタイでは、イスラエルの王であり、マルコでは主のしもべ、ルカでは全き人なのである。マタイでは意義深いまとまりが見られ、マルコでは早撮りの連続写真であり、ルカには「美しく語られた物語」がある。・・・・・・
「美しく語られた物語」、これこそルカの福音書である。ルナンはそれを「あらゆる物語の中で最も美しいもの」と呼んだ。ルカの福音書は、教養ある人の文体でもある。伝説によると、彼は画家であったと言われている。これは疑問があるが、彼が描写においては画家であった、ということは認めることが出来る。・・・・・・
本書は、読み始めてすぐに、はっきりした区分や動きがあるのに気づく。
さらに読み続けていくと、第一印象が確かなものであることがわかる。これから、分析し要約しつつ、この福音書を見ていくことにしよう。こうすることによって、全体の意味と調和を把握することが出来るであろう・・
第一の特徴は、降誕物語である。他の福音書でこれに匹敵するものは見当たらない。マルコとヨハネは、ベツレヘムにおける主の降誕について何も告げていない。マタイは降誕について語っているが、ルカとは別の資料によっている。マタイの記事は、ルカが誕生、幼児期、少年時代と記しているのに比べて、四分の一の長さしかない。・・・・
次に主のガリラヤ伝道に関する報告がある。これはマタイやマルコよりもずっと短い。そして次に、主のエルサレムへの旅の長い記録がある。マタイではでは2章が割かれている、マルコでは1章が割かれているが、ルカではおよそ10章がにわたっており、この福音書の中で最も長い部分を形成していることは疑う余地がない。ルカはそのことを示す註釈を7回挿入している。
「イエスは、、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられた」
(9章51節)
「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた」(13章22節)
「さぁ、これから、わたしたちはにエルサレムに向かっていきます」(18章31節・参照;19:11、28、37)
マタイにもマルコにも、エルサレムへ向かう、この長い記事は見当たらない。この部分は「大挿入」と呼ばれている。マタイ、マルコの両福音書は
ガリラヤ伝道とユダヤでのクライマックスというというはっきりした二つの区分に分けられているが、ルカの記録は次の四つの動きで描写されている。
1・・降誕、少年時代、成人期(1:5~4:13)
2・・ガリラヤ巡回伝道(4:14~9:50)
3・・エルサレムへの旅(9:51~19:44)
4・・最後の悲劇と勝利(19:45~24:54)
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私はルカの福音書が大好きである。それは特に、貧しい人、弱い人たちに心を配ったイエスの姿が表されているからでもあるかもしれない。そうしたイエスの心優しさ「その人を、見よ」とルカは書きたかったのだろう。
しばらく、ルカの福音書を書いていこうと思う。残念ながら、バークレーのルカに関する注解書は紛失してないが、それはかえって、別の視点からルカを読むことが出来て、面白いかも知れないと感じている。神を私の頭の中に閉じ込めることが出来るならば、(実際は不可能なことではあるが)、神は私の中で、大きな水晶の円球のようなものである。私がその水晶の内側にいるのか、外から眺めているのか、判別出来ない。しかし、目に映るものは、快い透明感であるようだ。
待降節も2週目に入った。講壇の灯も二本になった。今年はいつになく多くの人から贈り物をいただいた。先日もかお子さんから、お菓子が届いた今日また電話で、サツマイモを送るとのことであった。う~ん、東京からサツマイモですか。有難い、チンすると、おいしいおやつになる。感謝。
小話
ある先生のところに、かつての教え子から年賀状が届いた。
片隅にこう書かれていた。
「性が変わりました」
多分結婚したのだろうけど、教え方に不備があったか?・・・
この教師は悩んでしまった。・・・・