イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

12月7日(月):この人を見よ Ⅱ

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ルカの福音書の発端は、非常に人間的である。私たちは直ちに、質素な生活をする敬虔で情のある人々を見る。・・・ザカリヤとエリサベツ、ヨセフとマリヤ、「近所の人々や親族」、羊飼い、シメオン、アンナ、彼らの心と家庭と希望の中に引き込まれていく。また、布にくるまれた初子をみるために、飼い葉おけの前にたたずむ。マタイはまず系図に関心を寄せ、マルコは公の伝道に、そしてルカは降誕、すなわち「聖なる御子」の人間としての誕生、幼児期及び少年時代に時間をかけるのである。章が進むにつれて、この「人性」への注目は、本書の主要な鍵であることがわかってくる。「人性」を強調することがルカの福音書を解く合鍵であり、物語の内的な意味を解釈する「暗号解読の鍵」である。

この点について、これから注意深く見ていくことにしよう・・・

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・・・人として祈りにより頼むイエス・・・

エスが人として神により頼むことは、本書においては「祈り」

において表されている。共観福音書の各記者は共にゲッセマネの祈りを記しているが、このほかに主が祈られたことは、マタイは一回、マルコは二回しか述べられていない。ところが、ルカにおいては繰り返し記されている。・・・・・・・

☆・・イエスヨルダン川聖霊が与えられた時に祈っておられた(5章:21節)

☆・・よく荒野に退いて祈っておられたこと(3章21節)

☆・・十二弟子を選ぶ前に一人で「祈りながら夜を明かされたこと(6章18節)

☆・・変貌の折にはイエスは「祈るために」山に上られたこと(29節)

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☆・・「主の祈り」を説明される直前にも、「イエスはあるところで祈っておられた」こと(11章1節)

☆・・イエスはペテロに対して「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」と確信を与えたこと(22章32節)

☆・・ゲッセマネにおいてイエスは「いよいよ切に祈られたこと(44節)

☆・・十字架上でのイエスの最初と最後の言葉は「祈り」であったこと

(23章34節、46節)。これらはみな、ルカの福音書においてのみ学ぶことの出来るものである。・・・・・・・

主が人として祈りにより頼んだことは、主の教えの中に、どのように現れているであろうか。祈りにおいて頼み続けることを教える。「君。パンを三つ貸してくれ」という真夜中の願い(11章5~10)。いつでも祈り続けることを教える悩まされた裁判官とやもめ(18章1節~8節)。祈りにおいて謙遜を教える宮でのパリサイ人と取税人(9~14節)。のたとえはルカにのみある。「いつでも油断せずに祈っていなさい」(22章46節)。と二回目の「起きて誘惑に陥らないように祈っていなさい」(22章46節)も同様である。・・・・・・・

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また、ルカの描写もこの強調点を高めている。「大ぜいの民はみな、外で祈っていた」(1章10節)。御使いの「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです」(13節)

「夜も昼も、断食と祈りをもって」神に仕えたアンナ。(2章37節)。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています」(5章33節)。「主よ。・・・わたしたちにも祈りを教えて下さい」との願い(11章1節)。「いつでも祈るべきであり、失望してはならないと説明されたたとえの目的(18章1節)。そして、「しかし、わたしは・・・あなたのために祈りました」と、ペテロに主が確信を与えられること。・・・・

これらはみなルカにのみ記されている。この福音書が祈りの福音書と呼ばれるゆえんがここにある・・・・・・

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    ☆       ☆        ☆

まだ若い頃、聖書を読みながら、イエスがよく祈られていることに、疑問を感じたことがあった。イエスが神の子ならば、神と一体な筈である。なぜわざわざ、山などへ行って、あるいは夜を徹してまで祈る必要があるのかと不思議に思ったものである。

イミタチオ・クリステイという本を読んで、おぼろげながら

その意味を理解した。この稿でテーマにしているイエスの「人性」を示しているのに気づいた。イエスは、我々がその御足の後を辿れるように、自ら「人となって」十字架への道行を歩まれたのであると。イエスが「神の子としてのみ」この世に来られたならば、貧しさも、裏切りも、ローマの兵たちの槍も、侮辱も、十字架さえも、神の子を傷つけることはなかったであろう。その苦しみ、悲しさの中から、主は私たちに「わが足跡をたどれ」と仰せになっているのであろう。「わたしが神の子としてのみ、あゆんだならば、あなた方は到底私に従うことはできまい、しかし、わたしが、貧しい大工の子として歩んだ道は、あなた方も歩むことができる・・・・・」マリアの子は、そのことを私たちに語り続けているように思える・・・・・

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私の祈りの家には、最初から電気の配線をしていない。最初は石油ランプを使用していたが、安物で壊れてしまった。今は、ろうそくを一本灯しているだけだ。祈る時は聖書も持って入らない。

ただひたすら、主と向かい合えるように、そこで、ぼそぼそと主に語りかける。お応えはないが、主は確かに御心に留めてくださるであろう。それで十分・・・・

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まぁ、あなたって見かけによらず偉いのね・・見かけによらずは、余計だけど、偉い人は祈らない、駄目だから祈るの!・・

今日は、疲れた、小話はナシにしよう・・ガッカリ・・・