『まことに、御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても
朝明けには喜びの叫びがある』
(詩篇30篇5節)
北秋田恩寵教会は、このみ言葉の上に立っている。ちえこと二人で教会を始めた時、迷うことなくこれを教会の名とした。もう少し平易な、分かりやすい言葉、「恵み教会」でも良かったのだろうが、そこには「いのち」
に対するこだわりがあった。母が亡くなって、父が亡くなって、そのいのちの尽きる瀬戸際に立ち会った。その時の経験から、人のいのち、息は、確実に神が握っておられるのだということを、知らされた。生きるいのちも、死にゆくいのちも、いずれも神の御手のうちにあるのだということを
悟らされた。短い命も、長い命もそれは同じである。神が与え、神が取られるだけである。私たちは生きているのが、当たり前という錯覚にとらわれている。しかし、一つのいのちがこの世に現れるのは、途方もない奇跡以外の何物でもない。それに比べると、目の見えない人が見えるようになるのは、変化である。人が病になるのも、また「癒される」のも変化である。その変化はときとして、医師たちの経験によってもたらされるが、
誰であっても「恩寵なるいのち」にふれることはできない。まさに「いのちは恩寵のうちにある」のである。・・・・・・
先日、通りがかりの人が「恩寵教会」の看板を見て、「これ、なんて読むの」と聞いていたが、なじみのない名称であることは事実のようである。
そもそも、聖書にも、恩寵という語は、旧約聖書に4度しか記されていない。新約聖書には「恩寵」という言葉では翻訳されていない。すべて。「恵み」という言葉であらわされているようだ。ギリシャ語や、ラテン語はどうあれ、「恩寵」という言葉は、やはり私には、特別な意味合いをもつ言葉である事には変わりはない。教会内に聖句をやたらに張り付けるのはあまり好まないが、「いのちは恩寵のうちにある」と「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」というみ言葉は講壇の前に掲げてある。・・・・・・
昨日は、結局青森まで行ったが肝心の義姉には、会えなかった、みんなコロナを怖れて、最大限の防御を張る。施設の方で十分のことをしていくれているようだ。兄にだけは面会室で会ってきた。胃瘻はつけたが肝心の栄養が体力が弱っているので、吸収できていいないのだそうで、どうにもならないようすである。主に、無理強いするのは得意ではない。・・・・
今日の小話
☆・・うちのおばぁちゃんに、オレオレ詐欺の☎がかかってきた。
オレ、オレ、?ダレ、ダレ。・・オレ、オレ、?ダレ、ダレ・・
延々とこの会話が続いて、しまいに詐欺師が☎を切った。
☆・・子供がお父さんに聞いた。
百獣の王ライオンが一番こわいものは?
お父さんの答え
雌ライオン
実感こもっているなぁ・・・