イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月13日(水):ヘロデの不安

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エスがいつ生まれたかということを示すために、マタイは、ヘロデ王の代と記す。そこには多分に象徴的な意味がある。私たちが生きている時代、私たちの一生を考えると、順調な時もあり、またつまずいて、次から次へと問題が起きてくるような時もある。自分の意図のままに全てが運ぶこともあれば、万事が裏目に出て、自分が閉じ込められてしまうようにかんじることもある。イエスは、そんな私たちと無関係のところに生まれたのではなく、私たちが涙を流し、苦労し、絶望するその只中にお生まれになった。そこにイエスの誕生の意味がある。私たちのために神の子がお生まれなったということは、すばらしいことである。ところが、「ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた」とあり、「エルサレムの人々もみな、同様であった」と書いてある。イエスが生まれたということは、ヘロデやエルサレムの人々には不安なことであった。博士たちも、イエスを拝しにいくとき、長い道中を考え不安を感じたのではないか。祭司や律法学者たちも、ベツレヘムへ行かなかったのは、何か不安を感じたのではないか。ヨセフも何の波乱もなく静かな生活をしたかったかも知れない。しかし、マリヤが聖霊によって身ごもったと言われて心が痛んだが迎え入れた。

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やっと、子供が生まれると、エジプトへ行けと言われて、知人もない外国は、産後間もないマリヤと嬰児イエスを連れての旅には、不安があったと思う。イエスの誕生は彼らそれぞれの不安となったのである。・・・・

私はイエスを迎えるということは、私たちの人生に一つの不安を呼び起こすことだと思う。しかし、私たちが不安になるほど深くイエスを迎え入れなければ、イエスを信じたことにはならない。木に竹を接ぐという言葉があるが、自分と言うものを持ちながら、そこに異質のイエスを接いでいくような信仰では、命が通わない。信仰とは、イエスを私の中に迎え、受け入れることであって、自分がその僕になることである。・・・・

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13節には「あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい」とある。行って見てよかったらずっとそこにいなさいとか、いやだったら帰って来なさいと言われたのであれば、忍びやすいが、神の言葉はそうではない。あなたに知らせるまでそこにいなさいと言われても、私たちはなかなか従うことができない。しかし、ヨセフはエジプトへ行ったのである。それは神を自分の主として生きていったということであり、御言葉に従っていくとき、主を仰ぎ見ることが出来たのである。私たちは地上のことにのみ目を奪われるから、不安になるのである。私たちはもっと大胆に御言葉に従っていくべきだろう。(榎本保朗:新約一日一章)・・・・・

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・・・・・マタイの福音書2章3節・・・・

『それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様出会った』

       ☆        ☆        ☆

朝のデボーションに今年から、榎本保朗師の新約一日一章を用いようと思う。旧約の方は既に終えた。羽鳥明師の、詩篇の講解も終えた。これまで新約は手つかずになっていた。とりあえず、これで一年を通して見ることにする。主の恵みが豊かにあるように。祈りつつ・・・・昨日正男じっちゃんのところへ行って来た。元気だった。マチコから電話があって、声だけだが、張りがあったと言っていた。声を聞くと大体、健康状態が、親しい者には伝わる。無理している部分もあるだろうが。彼女から、祈りの要請を受けている。忘れていない。・・・・・ふくまろ君が話しかけてきた

答えたが、秋田弁は通じないらしい、な~に?。ききとれない・・・。

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おねーちゃん今日は早く休む・・何故そんなに徹夜ばかり・・昼寝てる・・ばかねぇ~