
ある宣教師が素晴らしい話を残している。彼女は、アフリカ人の小学生のクラスで、イエスの名前で一杯の水を与える話を、それまでよくしていた。彼女がベランダに座っていると、村の広場に現地人の荷物運びの一隊が入って来た。彼らは思い荷物を運んでいた。彼らは疲れ、のどが渇いており、休憩しようと腰をおろした。彼らは他の種族の人たちだったので、
もし彼らが地元の普通の原住民に水を求めたとしても、与えられる可能性はなかった。しかし、ひとびとが疲れてそこに座っていたとき、その宣教師が見ていると、学校からアフリカ人の少女たちが短い列をつくって出てきた。彼女らは頭の上に水がめを載せていた。彼女たちははずかしげに、また恐ろし気に、疲れている荷物運搬人たちに近づき、ひざまずいて水がめを差し出した。驚きながら運搬人たちは水がめを受け取り、水を飲み、
それらを戻した。すると突然小さな子供たちは一目散に逃げ出し、宣教師のところに駆け寄って来た。「わたしたちは、イエスさまの御名前において、かわいた人たちに水をあげました」と、彼女たちは言った。小さい子供たちは物語と義務を文字通り受け取っていたのだった。・・・・・

もっと多くの人にそうした子供たちの純真さを見習ってもらいたいものだ。求められていたことは簡単な親切であった。・・・・・
『あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです』(マルコの福音書9章41節)

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