祈りの家を造った。わずか二坪にも満たない建物だが、他の建物に較べ結構丁寧に仕上げた。ちえこには納骨堂だと言いながら建てた。そういう訳で先に召された人たちの写真をおいてある。日本広しと言えども、このような祈り祈りの場を持っている教会は少ないであろう。問題は、祈り人が来るかであった。予想通り、誰も来ない。この一年、二人、三人の信徒が利用しただけである。誰をも責めるつもりはない。それぞれがそれぞれの所で祈れば良いだけのことである。しかし、私にはこの納骨堂兼祈りの家での「時」は何物にも代えがたい至福のときである。『かの方』のように朝まだ暗いうちから起きて、祈り終える頃、東の空が白みはじめるのである。
以前は、ちえこと二人で公園を散歩しながら、賛美しながら、祈った。その前は、床にお釈迦さんのように胡坐をかいて祈った。くるぶしにタコが出来た。それで、どうなったかと言うと、どういうこともなかった。神様は、すべて無料の百貨店ではない。人々の救いのための執り成しの祈りはするが、『おねだり』はしない。聴くと「お前には全て与えている、その一つ一つを見出しなさい、お前の喜びはそれに尽きる」・・・・
(イミタチオ・クリステイ総集編・あとがきより)
高沢先生ご夫妻が、2週間ぶりに礼拝に来られた。聞くと、水彩画の講習に出かけておられたとのこと。絵を習うつもりらしい。いい事だ!。