ピラトは黙って総督法廷の裁判長の席に着き、イエスに十字架刑を言い渡した。正午すこしまえであった。正午にはもう、エルサレム北西の外壁にあるゴルゴタと呼ばれる処刑場で処刑がはじまっていた。ゴルゴタとは「されこうべ」という意味である。この日はイエスの十字架刑のほかに、その左右に2人の盗賊も同じように上にあげられていた。十字架の下には、カヤパらおもだった人々が証人としてしばらくの間処刑に立ち会っていたが、少し離れた所にイエスの十二使徒のひとりヨハネと、数人の女たちが、先生の最期を仕舞まで見守っていた。・・・・・・
女たちのなかにはイエスの母マリアと、マグダラのマリアの顔も見えた。これらの親しい人々に見守られながら、イエスは午後三時過ぎに息を引き取った。それまでの苦しい数時間、イエスは遺言を語り、また旧約聖書詩篇の祈りを口にした。それらの言葉は見守る人々によって記録され、語り伝えられた。なかでも彼らが驚異と感激をもって聞いた言葉は、カヤパらや兵士たちを見ながら祈った言葉である。・・・・・・
『父よ、かれらをおゆるしください。かれらはなにをしているのか、わからずにいるのです』
遊女や罪人をゆるしたイエスが、かれのいのちを奪う敵をもゆるしたことばとして、これは長く語りつたえられた。・・・・・・・
さて、歴史家が空想や想像によって歴史を書くのではない。事件を直接見た人の証言とか、その証言をもとにした、言い伝えや文章、あるいは事件の当事者のことばや書いたものを材料にして、それを「資料」として事件の経過や関連や意味を明らかにするのが歴史家の仕事である。その場合もちろん証言などの「資料」をうのみにすることはない。一つの事件に対して、いくつもの食い違った証言があることがしばしばであるが、そうした場合、その食い違った証言を批判的に検討し、一つの事実をそうした批判的検討にあたって、しばしば非常に有効な機能を果たす基準がある。それは、ある事実を事実として認めることが不利であるような立場にある人がその事実を事実として認めるか、あるいは暗黙の前提としている場合、あるいは積極的に否定していない場合、我々はその事実を疑いえない事実と考えてもよい、という基準である。・・・・・・・
これ迄イエスの生涯を書くにあたっても、このような基準に従って書いてきた。そこには、ラザロの復活のような今日の自然科学には説明しにくい事件があったが、それ等のいわゆる奇跡にしても、敵もまたこれをを事実であることを認め、その事実の承認の上に立って次の行動を起こしている限り、それらはそれらの奇跡に説明や証明を加えることなく、そのまま単純な事実として記してきた。イエスの生涯には、このような説明や証明を加えることはできないが、しかし、それを事実として前提しないと、前後の関連があきらかにならないような不思議な出来事がたくさんある。ただ単に当時のユダヤがおかれていた悲惨な状態によってだけでは、説明しきれないある主体的な力が、イエスの言行のなかにあって、それが運動を熱狂的なものに高めたのである。そうした不思議なできごとの最大のものは、最後のものであった。それはイエスの死後に起こった。・・・・・
この稿は、師の一部であり、歴史家の見た聖書の世界であるが、その歴史的史観は妥当のように思われる。この稿に続いてイエスの復活についても同視点で書いておられる。復活の稿を載せるかは、思案中である・・・
晴美さんから、手作りの、布制のバックが二つ、ちえこにセーター。が贈られて来た。まぁ、まぁ、器用な人で、何日もかけてつくってくれたんだろうなぁ、とついついホロリと来た。春になったら、また来てくれるだろう。有難う・・・
枇杷島の安藤康子さんから、便りがあった。「秋田へ行きたい」とのこと。亡きご主人昭さんの願いでもあった。昭さんは来る予定でいたのだが。ドクターストップがかかり、おお互いに涙を飲んだ。出来るならば私はここ一二年のうちに、名古屋方面を回りたいと願っている。いろいろむつかしい事もがあるが、祈りの一つである・・・・・