イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

2月8日(月):信仰と救い

f:id:dotadotayocchan:20201014185139j:plain

信仰なしに救いが存在するかどうかという問題を、ルターから聞いてみよう。

『答えはマルコ16章16、へブル11章6,ヨハネ3章6,5章18,に与えられている。もし神が信仰なしに救われるとすれば、それはご自身のみ言葉に反対して行動されることになり、ご自分を否定されることになるが、それは不可能である。パウロが言っているように(Ⅱテモテ2章13)、彼は自分を偽ることが出来ないのである。神の真理があやまることがないように、信仰なしに救われることはありえない。しかしこのことは

死後に神が信仰を与えて救われることがあり得るかという質問とは別である。そのようなことがおできにならないと、誰が疑うことができるか。しかし、そうされるかどうかの証明は何もない』・・キリスト教教義学(H・ジェーコブズ著)

f:id:dotadotayocchan:20200726082815j:plain

  ★         ★         ★          

何年か前、夜、一人の女性が教会を訪ねてきた。「まさ子です、まさ子です、」と言われてもすぐには思い出せなかった。無理もない、後に、彼女が計算したところでは、38年ぶりになるらしい、そう言えば、昔、そんな女の子がいたな、とおぼろげに思い出した。もとより、前の教会で私も信徒の時代であった。彼女は実家が隣町で、母親が入院したので遠い嫁ぎ先から看病のために通っていたのであった。それからしばらく、私たちの教会の礼拝に出ることになった。その内、いろいろ身の上話などもしたが、驚いたことに、彼女の弟さんが10年ほど前に自殺していたことを聞いた。キリスト教では自殺は認められいない。私は彼女がそのことについて、どれほど重い気持ちであったかは知らない。彼女から聞かれたわけではないが、そのとき、私はこのジェーコブズ博士が引用したルターの言葉を読んでいた。だから、「弟さんが救われないとは断定できない」と言った記憶がある。ルターの認識は確かに、矛盾しているが、きわめてギリギリのところで、苦渋の希望を、神の憐れみに賭けようとしているように思える。繰り返すが・・

『死後に神が信仰を与えて救われることがありうるかという質問とは別である。そのようなことがおできにならないと、誰が疑うことができるか、しかし、そうされるかどうかの証明は何もない』・・聖書のみ・・がルターの信条であったことは私たちも知ってりるが、それだけにこのような一文を記しているのは、神の憐れみの深さを識っていたからであろうと思われる・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200719174415j:plain

註:H・ジェーコブズ著。キリスト教教義学。第17章14項。

f:id:dotadotayocchan:20201114104804j:plain

 私の母も、洗礼を受けずに亡くなった。だが私は思うのである。御国へ私が入って、そこに母がいなかったら、そこが私にとって、心地よいところだろうか?。パウロが語っている。「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と。この言葉に望みを託してはいけないのだろうか。・・・・拡大解釈だと、だれが私を責めることが出来ようか・・・・