
誰でもそうであるように、猟師ニムロデもはじめは小さな男であったのだろう。
古代社会においては、村々は点在し、いくつかの家族単位で集落を形成していた。
その集落は多くは孤立していた。野獣の数が人々の数より多かったであろう。
猟師ニムロデは、かの集落を野獣から護る役割を担っていた。・・・・・

「猟師」とは、我々が今日考えるハンターとは、全く意味合いが違っている。銃を肩に、ハンチング帽をかぶった、現代の「鉄砲撃ち」とは異質の人たちである。ニムロデは、村落を護る狩猟者であった。古代社会においては、人の数より野獣の方が多かったことであろう。人々はたえず、野獣の脅威にさらされていたのである。小さな集落は、ひとたび野獣に襲われたらひとたまりもなかったであろうことは、容易に推察される。猟師ニムロデは、そうした集落を護る者であった。彼は武器をつくり、勇敢な若者を集め、絶えず集落を護る者であった。こうして、「狩猟の強者」は次第に人々から英雄視されていくようになるのである。・・・・・・・

カナン定着後でさえ。イスラエルが背教するとき、神はその罰を「わたしはまた野獣をあなた方に送るであろう。それはあなたがたの子供を奪い、また家畜を滅ぼし、あなたがたの数を少なくするであろう。あなたがたの大路は荒れ果てるであろう」(レビ記22章22節)このような脅威は、絶えず人々の住む地に存在した。いわゆる「自警団」ニムロデの働きが人々に歓迎され、また英雄視されていくにしたがって、彼は人民の保護者、文化の守り手、時代の救世主となって行くのである。・・・

アッスリヤの王、テグラテピレセル一世(前11世紀)は、四頭の雄牛、十四頭の象、九百二十頭のライオンを狩りとり、その勇気と力を見せつけました。「狩猟の強者」とは、敵に当たる勇気と力、民を守る才能と資格を備えた大王を表す古代の表現にほかなりません。こうしてニムロデもまた、人々を野獣から保護すると同時に次第に、彼らを支配するようになっていき、権力者となっていったのである。・・・・・

しかし、「主にあって、力ある猟師ニムロデ」は、それは神からの賜物であることを忘れてしまったのであろうか。ひとたび権力の魔力にとりつかれると、豹変する王たちの例は、数え上げたらきりがない。ニムロデもまたその例にもれなかったのである。元々、ニムロデという名は、へブル人にとって「我れ我は反逆しよう」という意味を持つものだと理解されている。「そのうち彼らは言うようになった。『さぁ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから』と言うようになった。権力者が神への反乱の狼煙をあげたのである。石の代わりにレンガを作る技術、粘土の代わりに瀝青を用いる才覚を身に着けた。・・・
如何に古代人と言えども、天に届くほどの塔を造れるはずのないことは知っていた。それにもかかわらず、そうした塔の建設を始めたのは、明らかに神への反逆であった。権力者ニムロデが、己の権勢を誇示するためのものであった。人民にとって、よき保護者、救世主として尊敬されたかも知れないとしても、神の前では「反逆者」でしかなかったのです。

『そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らはみな、一つの民、一つのことばで、このようにことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さぁ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた』
(創世記11章5節~8節)
天に届くと豪語した塔も神からみれば、わざわざ降りて来なければならないほどの地表の突起にすぎなかった(これは、皮肉である)。われわれにとって人民が一致団結することは美徳のように思えるが、その目的が、ニムロデの自己の権勢を誇るためのものである限り、彼らは神の意に沿う者とはならず散らされることになった。それは彼らのことばを混乱させられたとある。このことは重要である。実際彼らのうちに、例えば、フランス語、英語、ドイツ語などを話す者たちが現れ、意思の疎通が出来なくなったと考えることもできるが、実際的であったとは思えない。むしろ、それぞれの言葉の概念が変わって行ったと考える方が理解しやすい。美的感覚について、塔の建設の方法について、各人各様の意見を持ち始め、混乱を招いたと考えるほうが妥当であるように思える。・・・・・
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今日でもバビロニア地方には、三十数個の「ジックラットゥ」と呼ばれる人工の山または塔の遺跡がある、それらは何十メートルもの高さまで階段状にレンガを積み上げた四角錐で、頂上には神殿があるという。しかしながら、その塔は建設者の「名をあげる」ためのものであったところに大きな誤りと、罪があった。このニムロデの物語は先に書いた「サクラダ・フアミリア」の対極にあると、私は考えている。ガウデイは神の栄光をあらわすために「神の聖家族教会」として、建設完成まで300年もかかろうとする塔を建設しようとした。壁には美しいステンドグラスがはめ込まれているという。2026年の完成予定だという。最終的仕上がりの陣頭に立っているのは、日本人の、外尾悦郎という人物である。彼はガウデイの遺志として、最上階で見上げるとき、イエスの愛が分かるようにと心がけているという。完成の暁に、私はその報道を聞きたいと願っている。ニムロデの故事はただ遠い昔に起こった事だけで済まされない、神のみ旨が今も示されているような思いにさせられる。

いわゆる、グローバルということが言われて久しいが、世界がその発信地であるアメリカに従属していく様子は、この者には、ニムロデの幻影を見ているような気分にさせられる。やがてグローバルなる波が世界を覆うのであろうか・・・昔九州の方から出てきた、無学なと思えるこのおばぁちゃんの言葉が忘れられない・・・曰く。『わたしは群れない』と。地方の片隅で生きていくつもりなのだろう。

