イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

2月13日(土):十字架上の七つの言葉

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十字架上で主が語られたお言葉は次の通りになっている。

【父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです】(ルカの福音書22章34節)

エスの語られた七つの言葉は、朝の9時から午後3時まで、6時間の間に語られた。初めの三つは9時から12時までに語られ、12時から3時までは、地上の全面が暗黒になった。それから第4番目の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の叫びが発せられ、続いて矢継ぎ早に最後の三つの言葉をもって終わられた。前後6時間の間に、わずか七つの言葉では少なすぎるとも思うが、それぞれに深い意味を見いだすことができる。・・・・・・・

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この十字上のお言葉は、主の明確な意識のもとに語られたものであった。十字架は主が神に対する最後の服従の行為であったから、たとえ短くとも注意に価する。さらにこれらの一つ一つの言葉には、少しもわざとらしさがない。きわめて自然なことばである。

普通偉人の最後の言葉には、飾りがあるが、福音書の記者たちは、ありのままを書いている。そこが信用してよい所である。そして、これらの言葉は実に多くの人々に感化を与えている。この事の意味は大きい。ある学者はこの七つの言葉を注解して次のように書いている。第一は、祭司的執り成しの言葉、第二は、王的権威の言葉、第三は、摂理と孝心の言葉、第四は、霊的苦悶の言葉、第五は、肉体的苦痛の言葉、第六は、勝利の言葉、第七は、平安と信頼の言葉、であると言っている。・・・・・・

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【父よ彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです】

バビニの「基督の生涯」を見ると、「人間が生まれて、祈り始めるようになってからこの方、いまだかつてこれ以上の神聖な祈りが、天にあげられたためしがない。実に、それは人間の祈りではなくて、神に対する神のそれである」と言っている。・・・・・

自分を殺す者をゆるす、すなわち敵を赦していくという、この最も困難な教えを、主イエスは、最後にその死をもって教えられている。この言葉は十字架上でただ一度だけ言ったのではなく、いまなお、この言葉は我々の罪のために、とりなす主の祈りである。

【何をしているのかわからずにいる】のが人間である。キリストの心を傷つけているのがいかに恐ろしいことか、キリストを殺すことがいかに罪深いことであるかを、とうてい我々は知り得ないのである。・・・・・・・

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 アダム以来罪に浸っている我々には、神の子の霊を受けない限りは、何をしているのかわからない盲目の群れである。キリストを殺すことがいかに罪深いことかを、到底我々は知り得ないのである。・・・・・・・・・

十字架上の第二のお言葉は、盗賊に対しての罪のゆるしの宣言であった。この盗賊に対して「きょう」わたしと一緒にパラダイスにいるであろう、と言われた。過去の罪の生涯が一日も早く去らんと願っている彼、一時も早く苦痛を逃れようと思っている彼にとって、「きょう」とは実に強い慰めの言葉であった。パラダイスは元々ペルシャ語で、楽し土地を、あるいは美しい楽園の意味を持っていたが、「御国」と言ってもこの盗賊には理解出来なかったであろう。ここにイエス臨機応変な叡智を見ることができる。

第三番目のお言葉は、母マリアに対する思いやりで、弟子ヨハネに対してその後顧の憂いのないように願ってるお言葉である。誰かキリスト教が、親不幸を教えるというのか、最後の時にもイエスが母を思う情愛を示す言葉である。弟子のヨハネに託したのは、まだ自分の弟妹が、豊かな生活でなかったかもしれない。むしろ、まだイエスを信じていなかったからでもあるかも知れない。・・・・・・

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第四番目の言葉は、エリ、エリ、ラマ、サバクタニ。である。ここで著者(島村亀鶴師)はいろいろ例話などを用いて解説を加えているが、この1ページ半の部分を削除する。私の理解に合わないのである。不思議に思えるかも知れないが、イエスのこの、叫びは、究極の部分で、これほどの慰めを受ける言葉はない。人は、信仰者は、命の瀬戸際に立たされた時、大抵こう叫ぶ「わが神、我が神、どうして私をお見捨てになるのですか」。これまでどんなにあなたにお仕えして来たか、ご存じのあなたが、私をお捨てになられるのですか。人生の苦難の日に、そのように祈った人もきっといるはずだろうと思う。そんな時には、イエスもこのような祈りをなされたのだと、思い起こすとき、不思議な平安が私たちを包む。・・・・・・

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第五の言葉は「わたしはかわく」である。これは、我らの愛が、祈祷が、伝道が奉仕が足りないから、主は今も「われかわく」と言われるのではあるまいか。としている。

第六番目のお言葉は、「すべてが終った」である。これは完成したとの意味であるという。しかしこの完成は、キリスト者にとって主の御業の完成への出発点と考えられるとのことである。

第七番目の言葉は「父よわが霊を御手に委ねます」。これは信愛の情の深いものがある。完成したわざに対する喜びがあり、信頼の平和がある。十字架上の七つの言葉は、父より始まって、父よで終わっている。いかなる時も神を父と呼ぶ者に、真実の平安がある。

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このブログも昨年の2月に始めてから、もすぐ一年になる。この間一日も休むことなく書き続けてきた。凡そ書き終えるのは、夜中になる。朝は、およそ3時半に起きて、祈りに備える。二月ほど前から、夫婦で祈っている。よく体が持つなとご心配もいただくが、そこは抜け目なく、昼に1~2時間休む、これで結構健康は維持される。感謝なことであるが、一年をめどに今後のことを考えていきたい。しかし、恵まれた楽しい日々であった。

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