マルコの福音書16章は復活の記事である。イエスは金曜日の夕方近くに十字架からおろされ、あたふたと墓におさめられた。安息日は夕方から始まり、イエスに香油を塗ろうとしていた女たちも、外出できずにいた。「さて、安息日が終ったので」というのは、土曜日が終ったということであり、マグダラのマリヤらは、安息日の始まる前のわずかな時間に香料を買いに行き、安息日が明ける日曜日の朝早くイエスの墓に行った。このことから彼女たちがどれほどイエスを慕い、時を惜しんで励んだかが分かる。・・・・
ただ、彼女たちとイエスとの間には非常に大きな石がおかれていた。その石を取り除かなければ、彼女たちは墓へ進めなかった。しかし、彼女たちは決してくじけず、とらわれず、イエスの墓へ行ったのである。そして「石はすでにころがしてあった」という神の栄光の業を拝することが出来たのである。・・・・・・・・
信仰生活では「石はすでにころがしてあった」という神の私たちの生活への介入に出会わなければならない。よくイエスに出会ったという人がいるが、それはイエスが自分の生活に入り込んで来られるということである。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中にはいって彼と食事を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示3;20.)私たちが扉を開いてイエスを向かい入れなければ、石が転がしてあったことは経験できない。その経験がなくては、信仰はいつも借り物であり、何の役にも立たず、ただ表面的なものにしか過ぎない。・・・・・・・
パウロが私の福音と言っているが、福音が、聞くだけ、教えられただけにとどまるのではなく、私が生かされている福音と言えるためには、この女たちがしたように、自分の可能性にのみ留まらないで、神に信頼していくことこそが大事である。そのとき、私たちは自分の生活の中で、「石はすでにころがしてあった」という、神の介入の業の目撃者となるのである。【榎本保朗一日一章】より。
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イースターを境に今日から、ブログを書きはじめる。この間いろいろなことがあったが、一度には語れない、折にふれて語っていきたい。とりあえず、今日はこの辺で・・・ただし公開はするがしばらくFBへの投稿は控える。
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