イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月6日(火):疑う者に確信が与えられる

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トマスにとって十字架は、まさしく予期していたことであった。ラザロが病気だと知らせがとどいて、イエスがベタニヤに行こうと言われたとき、トマスはこのように答えた。「私たちも行って、先生と一緒に死のうではないか」(ヨハネ11;16)。

トマスは決して勇気のない人ではなかった。が、トマスは生まれつき悲観的な人間であった。トマスがイエスを愛していたことは、何の疑いもない。他の弟子たちがしり込みし恐れていたのに、彼だけはエルサレムへ行って師と一緒に死のうとまで考えた。彼はそれほどイエスを愛していたわけである。トマスが予期していたことが起った。それが事実になった時、予期していたにもかかわらず、トマスの傷心ぶりはひどかった。傷心のあまり人々と会うに忍びなかった。トマスはただ一人悲嘆にくれることを願った。

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ジョージ五世は、人生の鉄則は一つだと言ってこう言った。「私が苦しみを受けなければならない時には私を放置して、一人で苦しむようにさせてくれ」と。トマスは自分の苦しみや悲しみに一人で耐えなければならなかった。それ故、イエスが再び帰って来た時には、トマスはそこにいなかったのである。イエスが帰って来たという知らせは、真実であるにはあまりのも調子がよすぎるように思われた。持ち前の悲観主義から、好戦的になり、その手に釘の後を見、指をその釘あとにさし入れてみなければ、イエスの復活を絶対に信じないと言ってしまったのだ。・・・・・・・・・

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こうして一週間が過ぎ、イエスが再び現れた。この時はトマスもその場に居合わせた。イエスはトマスの心を知っておられ、トマス自身の言葉を繰り返し、彼が欲していたように自分を調べるように促した。トマスの心は愛と献身的な思いに満たされ、ただ、「我が主よ、我が神よ」としか答えられなかった。そこでイエスは彼に言われた「トマス、君は信じるために目で見なければならなかった。しかし、いまに人々が信仰の目でみて、信じる日がくるであろう」。トマスの性格は、この物語の中にはっきり示されている。・・・・・・・・・

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トマスは一つの誤りを犯した。彼はクリスチャンの交わりから身を引いた。彼は共にいる事よりも、一人でいることを求めた。クリスチャンの仲間と共にそこにいなかったので、イエスの最初の来臨を逸した。クリスチャンの交わりから自分を引きはなし、一人になろうとするとき、私たちは多くのものを失うことになる。私たちが一人でいるときには起こらないことが、キリスト教会の交わりの中では起こり得るのである。悲しみや悲惨が私たちを襲うとき、私たちは自らを閉ざし、人々と会うことを拒みがちである。だが、そのときこそ、悲しみの中にありながらも、キリストにある人々との交わりを求めるべきなのだ。私たちがキリストのにまみえる一番良い場所は、教会の中である。

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しかし、トマスはすぐれた二つの徳を持っていた。トマスは、信じてもいないのに信じているなどとは、けして言わなかった。トマスは、分かっていないことを分かったなどと、決して言わなかった。トマスには、妥協しないという誠実さがあった。トマスは、疑問があってもないかのようなふりをして、それをごまかしてしまうようなことはしなかった。トマスは、信条がそれがどういうことか理解しないで、ぺら、ぺら、口にだすような人間ではなかった。トマスは確信しなければならなかった。そして、トマスはまさに正しかったのだ。ある詩人はこう書いている。

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なまじっかな信条よりも

誠実な懐疑にこそ

まことの信仰は生きている

 

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 よく考え抜かないこと、また実際に信じていないことをペラ、ペラ、繰り返す人よりも、納得のいくまで食い下がる人の中に、究極の信仰がある。それは最後に確信に到達するような疑いである。トマスの、今一つの徳は、ひとたび確信をすると、とことんまで進むということである。「わが主、わが神」とトマスは言った。トマスには中途半端な道はなかった。トマスは、ただ知的な曲技のために自分の懐疑を吹聴したりはしなかった。トマスは確信に至るために疑ったのだった。そして、ひとたび確信にいたるや、その確信に身を任すいさぎよさは、完璧なものであった。もしある人が多くの疑いを経て遂にイエス・キリストは主である、という確信に至るならば、軽率に物事を受け入れる人のとてもなし得ないような確信に、到達したと言えよう。・・・・・・・

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 その後のトマスについてはどうなったかについては、はっきりとわからない。ただし。聖書外典には「トマス行伝」が記録されていて、その後のトマスのインドにおける、働きは記されている。既にこの、すこぶる面白い物語は、昨年9月8日に記してある。